8月7日(水)立秋

晴れ、のち曇り
黄昏の雲の内なる稲光    正子
配達の荷にどっかりと梨袋  正子
立秋の坂ながながと大学沿い 正子
●夕べの雨と雷が嘘のように今朝は、秋めいた朝の空だった。今日は立秋。きのう親戚の訃報を聞いて、お盆が近いことに改めて気づいた。お盆の支度をしなくては。去年は新盆だったので落ち着かなかったが、ことしは静かにお盆が迎えられる。日吉の仏具店で精霊棚の真菰、蓮の葉、牛馬などを揃えた。
●『ヘッセ詩集』(高橋健二訳)を読んでいる。有名な詩には、ドイツ語の原詩があるが、原詩がないものにも、訳の後にドイツ語の原題が書かれている。これは素晴らしい考えと思う。もとの詩に当たりやすいこともあるが、私はもうひとつの価値を見た。
「村の夕べ」の原題は「Dorfabend」。「村」は日本の「むら」、「Dorf」はドイツの「むら」で、おなじ「むら」ながら言葉が喚起する「むら」のイメージは全く違うものになる。だから、「Dorfabend」を目にしたとき、すぐにも「Dorf」に行ってみたいと思ったのだ。ヘッセへの共感は、ヘッセの話す言葉を辿ることから始まるのだろうと思った。
ヘッセの詩集『ロマン的な歌』のなかの「シュッワルツワルトSchuwalzwald)」を読んで、はやもクリスマスカードのことが思い浮かんだ。この詩は意味がやさしいし、モミの木もあるし、クリスマスのカードに素敵なのじゃないかと。(ヘッセはシュワルツワルトの北の玄関口のカルフで生まれている。)
 シュワルツワルト(高橋健二訳)
なんとも言えず美しくつながる丘、
暗い山、明るい草地、
赤い岩、トビ色の谷が、
モミの影にほのかにおおわれている!
その上で、塔の鐘の
つつましい響きが
モミのあらしのざわめきにまじると、
私はいつまでも耳を澄ましていることができる。
そうすると、夜、暖炉のそばで
読んだ伝説のように、
ここを家としていたころの記憶が
私をとらえる。
あのころは、遠いかなたがもっと気高く、柔らかく、
モミの林に飾られた山々が
もっと幸福に、もっと豊かに、
少年だった私の目の中で輝いた。
この第4連に私は自分の子ども時代を重ねた。朝夕に、中国地方の老年期の松におおわれた山の向うに深い空を見、山の向うに彩られた街を想像した。たしかに、「遠いかなたがもっと気高く」、「松の木に飾られた山がもっと幸福に」見えていた。
Copilotに尋ねて、この詩の原詩を教えてもらった。
Schwalzwald 
         Hermann Hesse
Seltsam schöne Hügelfluchten,
Dunkle Berge, helle Matten,
Rote Felsen, braune Schluchten,
Überflort von Tannenschatten!
Wenn darüber eines Turmes
Frommes Läuten mit dem Rauschen
Sich vermischt des Tannensturmes,
Kann ich lange Stunden lauschen.
Dann ergreift wie eine Sage
Nächtlich am Kamin gelesen
Das Gedächtnis mich der Tage,
Da ich hier zu Haus gewesen.
Da die Fernen edler, weicher,
Da die tannenforstbekränzten
Berge seliger und reicher
Mir im Knabenauge glänzten.
第4スタンザの最後の行は、ドイツ語をよく知らない私にも、感銘深く受け取れれて、胸にジンときた。樅の木のTannen(baum)の響きが懐かしく聞こえる。驚いたのは韻が踏んである。

8月6日(火)広島平和記念日

曇り、夜おそく雨と雷
夜の雷のおびただしきに起き出しぬ 正子
広島忌訃報の届く電車内      正子
原爆忌地球の画像の海と雲     正子
●今日は、夜10時ごろになって、急に雨と大雷。今年は雷が多い気がする。
●郵便は、なにかしらほとんど毎日届いている。今朝郵便受けに葉書きが一枚、しずかに入っていた。花冠をお送りしたお礼の葉書きだった。信之先生の俳句も、正子の俳句日記も読んでいると言ってくださった。正子の俳句日記について、「今回も印象的」だったと書いてあったので、「あり得ない」とうれしく、また、励ましなのだとありがたく思った。
●午後、横浜の高島屋とそごうで買い物、紀伊国屋書店と鳩居堂と手芸店と画材店に寄る。横浜に行ったついでに、あちこち寄ったのだ。帰りの電車でスマホを開けると、親戚の者が亡くなった連絡が入っていた。明日が告別式というので、まず、お悔みの電報を帰ったら出そうなどと考えていて、一駅乗り過ごして終点まで行ってしまった。そのまま乗って引き返し、帰ってすぐ、弔電を打った。

8月5日(月)

晴れ、のち曇り
蝉時雨バスの重心やや前に       正子
夕蝉の螺子のゆるみて鳴きおわる    正子
百日紅散りては塵となり吹かれ     正子
●今朝は良く晴れていた。朝干した洗濯物は昼過ぎには乾いた。すぐに取り込んで、日差しがもったいないので、竿に布団を掛けて軽く干した。するとあっという間に空が曇り、布団を取り込んだが、布団はそれでも気持ちよく乾いている。そのあとずっと曇りなのだ。しなければいけないことを忘れているような気持にさせられる曇りの天気だった。
●7,8年前に買った布がでてきたので、昨日はミシンを出し、信之先生が使っていた椅子(NIIチェア)のクッションカバーを縫った。うまく縫えたので、今日は、自分の枕カバーを縫った。古いのが褪せてきたので、そのファスナーを再利用して縫ったが、サイズがピッタリで、ずれることもなさそう。当分ミシンは出しっぱなしにしておく。

8月4日(日)

晴れ
路線バス団地の夏灯の中を抜け      正子
茄子ししとう色生きいきと煮びたしに   正子
オリンピック晩夏となりて泣く顔顔    正子
●こんなに晴れているのに、どこかで霧を発生させているのかと思うような小さい雨が降った。空が黒く曇りながら、太陽は疑う余地もなく灼熱の太陽なのだ。JAの直売所に行ったが、暑さのせいなのだろう、売られている野菜が少ない。それでもトマト、ナス、キュウリ、枝豆、ししピー、にんにくが買えた。これらはどれもおいしい。店員と農家の人が浜梨の話をするのが聞こえた。もうすぐ浜梨のシーズンが来る。
●メイ・サートンの日記を読んでいるが、その中に出て来るアルフレッド・オプラ―は、今、私の気になる人だ。彼の日本回顧録『日本占領と法制改革』について、次の文章をネットで見つけた。オプラ―研究は始まったばかりと言う。私がひとり誇りにするところは、私は新日本国憲法公布、施行の年に生まれ、日本国憲法と同い年であること。
メイ・サートンの日記では、1970年オプラ―夫妻はメイ・サートンを訪ねている。オプラ―夫人は1976年死去。この年、『日本占領と法制改革』を表。(日本では1990年評論社より翻訳発売)。1980年にニュージャージー州の老人ホームに転居後、1982年89歳で死去。

●アルフレッド・C・オプラーと内藤頼博と裁判所法

Alfred Christian Oppler(以下オプラー)は、1893年(明治26年)、ドイツ人裁判官の子として、当時ドイツ領だったアルザス・ロレーヌ地方で生まれ育ったが、第一次世界大戦後、同地がフランス領になったため、ベルリンに移住して判事になった。38歳でドイツ最高行政裁判所陪席判事、翌年にはドイツ最高懲戒裁判所副長官という「まれに見る経歴」で出世するものの、祖父母がユダヤ人であったことから迫害され、1939年(昭和14年)、命からがらアメリカに移住し、一事は庭師として職探しをするほど困窮したが、ハーバード大学で教職を得、1945年(昭和20年)に米国市民権を得た。
1946年(昭和21年)2月23日、米国防省の要請に応じて占領統治下の東京に着任し、民政局に配属される。当時はGHQ草案が日本国政府に提示された直後である。このようなタイミングから、オプラーは日本国憲法の制定にはほとんど関与せず、日本国憲法に基づく各種の法制度(憲法附属法)の制定に取り組むことになった。特に、裁判所法は、憲法の公布(1947年5月3日)から施行までの半年の間に、オプラーとその部下たち、及び日本側スタッフの手により法典化されたものである。このとき、日本司法省側の担当者として活躍した裁判官の内藤頼博は、信州高遠藩主の嫡流である。
1947年(昭和22年)3月12日、枢密院の御前会議で裁判所法案が議決されたとき、オプラーは内藤頼博の手を握って「あなたと私の間にいい子どもが生まれた。きっと立派に育つだろう」と述べたという。オプラー55歳、内藤39歳であった。
オプラーは、「占領法制改革に臨むにあたって、かなり早い段階で『日本の法体系がコモン・ローではなく大陸法に基づいている』という認識を示し、『アングロ・サクソンの法体系が大陸法のものよりも優れていると考えがちな傾向を』戒め」たという(出口雄一「『亡命ドイツ法律家』アルフレッド・C・オプラー」法学研究82巻1号)。
●独仏国境紛争地帯に生まれ育ち、ドイツ裁判官として栄達を極め、ユダヤ人の血統故に迫害された後米国民として占領軍に参加したオプラーの経歴は、裁判所法をはじめとする「憲法附属法」に込められた思いを忖度する際、欠かすことはできない。
オプラーは、1955年(昭和30年)に日本を去った後、1976年(昭和51年)に”Legal reform in occupied Japan”を著し、同書は1990年、日本評論社より、『日本占領と法制改革―GHQ担当者の回顧』として翻訳され出版された。同書の監訳をつとめたのは内藤頼博である。
1976年(昭和51年)、オプラーは夫人を喪い、1980年、ニュージャージー州の老人ホームに転居した。内藤頼博によれば、1981年(昭和56年)に再会した際、88歳となっていたオプラーは「日本の人たちは、今は私を忘れてしまった。しかし、私は彼らを忘れていない」と紙片に書き、内藤を悲しませた。実際のところ、憲法調査会(1956年~1965年)の会長を務めた高柳賢三東京大学名誉教授は、「占領軍の法律家の中には大陸法系の知識と理解を持った人は誰もいなかった」と発言し、オプラーを驚愕させたという。このときすでに、オプラーは忘れられていたのだ。(高柳賢三という名前を私はよく耳にした記憶がある。)
正子引用注:

大陸法とコモンローの相違点。

★コモンローは、大陸の慣習法とりわけ制定法とは異なり、裁判官法に依拠しする。大陸とは異なって、裁判所の判決が拘束力を有す(先例拘束性)。
★大陸法では、裁判官は法律に拘束されるのであって、先例にではない。
★諸裁判籍は、大陸型の法体系とコモン・ローとの間で国際裁判管轄の根拠づけにつき最初から著しく相違している。
1982年(昭和57年)4月28日、オプラーは89歳の生涯を閉じた。内藤頼博は、1973年(昭和48年)に退官した後弁護士になり、多摩美術大学学長、学習院院長を務めた後、2000年(平成12年)12月5日に92歳で死去した。裁判所法の制定過程に関して『日本立法資料全集』という大部の書籍を遺しているが、古書でなんと50万円以上するので、とても手が出ない。どなたか、貸して下さい。
日本におけるオプラーの業績の研究は、驚いたことに、始まったばかりである。

8月3日(土)

晴れ
ナイターのサッカーいきいき子ら走り 正子
子らがあそびし芝生夜となり虫の界  正子
夜の蝉二声のみの声をあげ      正子
  
●2025年版『角川俳句年鑑』に花冠の広告を出すことをFax。六分の一ページ。年鑑は45000部印刷されるそうだ。

●8月も3日となった。きのうもそうだったが、ベランダに光が斜めに差し、光は黄ばんでいる。今日はどこにもいかなかったから、一日ベランダの光の具合を見ることになった。その斜めの光の作用はなにかというと、プランターに植えている紫蘇や朝顔の葉に「斜めに」差して、葉を浮かすように葉に葉の影を作っている。これが人に晩夏を意識させるのだ。

●メイ・サートンの『独り居の日記』を読んでいるが、日本に関係あることががしばしば書かれている。彼女の机の近くには日本の壺が置かれ、花が生けられている。百合と牡丹の葉などのようだ。、牡丹の葉はピンク色をした茶色。その花束の形容に日本語なら「しぶい」と言うだろう、と記録している。

興味深いのは、この日記は(私が計算では1970年)9月15日から始まっているが、9月21日に、昨日のこととして次のように書いている。

「外を見ると、二人の老人だ芝生の端に立っているのが見えた。それから二人は丘を降り、また戻ってきたが、私が外へ出てくるのを望んでいるのは明らかだった。だから私は出ていった。彼らが一度ならずここに来たことがあるのははっきりしていた。私の『夢見つつ深く植えよ』と、詩の愛好者なのである。
彼らはヒトラーからの亡命者、シャーロットとアルバート・オプラー(正子注:アルフレッドが本当らしいが、サートンの記憶違いか?)だとわかった。米国に来た後、マッカーサーによって日本へ送られたのだったが、それはアルバートが法律の専門家として、日本の新憲法の草案を書くためであった。私がタイム誌向けにこのところ書評を書いているエリザベス・ヴァイニングを彼らが知っているにはいうまでもない。」

この箇所、驚くではないか。日本の新憲法の草案だとか、上皇陛下が皇太子時代の家庭教師エリザベス・ヴァイニングだとか。

日本国憲法の草案は最終的にGHQのものが採択されたが、GHQの民生局に日本国憲法の草案を作るチームがあったとある。そのチームのメンバーの名前はほとんど一般には知られていない。オプラ―は祖父母がユダヤ人だったので、アメリカに亡命したドイツの法律学者で、アメリカ政府の仕事をし、GHQの民生局に配属されている。シャーロットというのは、おろらくオプラ―の夫人であろうと思う。

ウィキペディアを引用すると、
アルフレッド・C・オプラー(英語: Alfred Christian Oppler、1893年2月19日 – 1982年4月24日)は、ドイツ及びアメリカ合衆国の法律家。
1893年にドイツ領アルザス=ロレーヌ地方で生まれる[1]。ドイツの大学で法学を学んだ後で司法官となる。1933年にヒトラー政権が誕生後にユダヤ人蔑視の風潮が司法界に広まり、祖父母がユダヤ人であったオプラーは司法官を退官。その後は地方官吏となるが、1938年に水晶の夜事件を受けて、アメリカに亡命。アメリカで大学の教員を経て、1944年に政府機関に就職。1946年に日本を間接統治していたGHQの民政局に配属され、戦後日本における法制改革を担当した。日本が主権を回復した1952年からは在日米軍で主に政治分析を行っていたが、1959年にアメリカに戻る。アメリカに戻ってからは日本時代の回顧録を執筆し、1982年に89歳で死去した。
正子注:日本時代の回顧録は『日本占領と法制改革』。

8月2日(金)

晴れ、時々曇り
紫蘇の葉に影ちらちらと晩夏光    正子
夏負けにシナモントースト力とす   正子
 トトロの黒猫ジジ
西日除け座らす「ジジ」のぬいぐるみ  正子
●日本詩歌文学館から、収書の手紙。今回求めに応じて初めて花冠No.371を送ったが、かなり徹底して詩歌に関する図書を集めている様子。今回、371号だけ送ったが、そのうち、揃えて送るつもりである。
●晃さんの俳壇の原稿が落着。郵便事情が変わって普通郵便が遅いから、締め切りに間に合うよう気を付けてくださいと念を押す。
●図書館から、『独り居の日記』(メイ・サートン著・武田尚子訳/みすず書房)と『ヘッセ詩集』(高橋健二訳/小沢書店)を新しく借り、『ヘッセ 魂の手紙』『人は成熟するにつれて若くなる』を延長で再度借りた。
暑いと言いながらも、日差しが黄ばんで、晩夏の光である。口内炎も治ったようで、音楽を聞きながら本が読めるぞ、と嬉しくなっている。学生時代の試験が終わった後の開放感に似ている。図書館から帰って、4時ごろ晃さんの電話を受けて、その後、座布団2枚と枕とほっこりした布団を居間に持ってきて、寝そべり、音楽をかけてクーラーの中で、メイ・サートンを読み始めた。
眠ったのか覚めているのか、音楽だけが聞こえて「死んだばかり」の自分がいることに気づいた。体が浮くような感じで、誰かが背中を少し支えて柩に入れられた。音楽がずっと流れていて、死んだばかりだから、まだ生きているようなのだが、胸元に薄クリーム色のレースのようなものがほんの少し見える。波が体を連れて行くような音楽が気になり、パソコンの画面をみるとマーラーのシンフォニー第5番4楽章の字幕が見えた。ああそうかと思っていると、また何度も聞いた音楽が流れている。なんだろうかと、またパソコンの場面を見るとバッハの「羊はやすらかに草を食み」の字幕が見えた。死んだばかりで柩に入れられていたのは、現実すれすれの夢の世界。耳に音楽は、はっきりと流れていた。この現実が、これが夢のようだった。

8月1日(木)

晴れ、時々曇り
暑き日の終わり路地にカレーの香 正子
炎昼を歩くとき持つ氷水     正子
虫の声一つを聞けば哀しくも   正子
●8月月例ネット句会案内をする。
自由な投句箱、月例ネット句会のテンプレートを8月仕様に変更。
●晃さんの俳壇投稿の件で相談にのる。
●夕方団地内を氷水をもってウォーキング。口内炎ほぼ治る。

7月31日(水)

曇り、 夕方雷、雨
七百円の値の涼しくも胡蝶蘭 正子
雷鳴に窓全面の撃たれけり  正子
朝顔の青きしげりに花未だ  正子
●夕方、空を見ると、雲が広がって怪しい青みを帯びた灰色の嵐の前のような色。やがて、大きな雷。しばらくすると雨。ニュースによると板橋区や埼玉では大雨。
●モリスの旅日記は夏の読み物としてよかった。今読んでいる『ヘッセ 魂の手紙』はだんだん気分が重くなってくる。ヘッセに限ったことではないが、傷ついたことなど多くを思い出した。

7月30日(火)

晴れ、のち曇り
夏草をあおあお灯し庭園灯   正子
柔らかき草の底より虫の声   正子
桃食べて桃の一個の冷えを身に 正子

●今日は危険な暑さの予報。朝、駅前のポストまでが、暑すぎた。日傘をさしていても道路の照り返しがひどい。大変な暑さになると思っていたが、昼前ごろから曇ってきて、気温もが少し下がったのは幸い。夕方散歩にでることができた。氷水をもって団地を歩いていると、草の中に、虫がよく鳴いている。

●『ヘッセ 魂の手紙』(ヘルマン・ヘッセ著/ヘルマンヘッセ研究会編訳)を
80ページほど読む。青年期の内面の葛藤というものが一通りではないが、これは詩人という性質からくるものなのだろうと思った。「詩人」は「作家」と同じように職業と言ってしまうのも、違うような気がする。「詩人」ということについて、様々思わせてくれる手紙である。芸術や文学について、賛美歌と詩の芸術性、道徳の位置づけについて、中学生ごろからわかっており、早熟を思わせる。

●花冠名簿の整理。
●プリンを作る。基本のキのプリンを作った。めずらしく、ほぼ1ミリも違いなくできた感じ。

7月29日(月)

晴れ
朝顔をコップに挿せば水が澄み 正子
直木賞の本が派手なり夏休み  正子
夕暮れて戻る晩夏のわが家路  正子
●月曜日。なにかと、「始めなければ」と思うが朝から眠い。今朝も昨日と同じ、小澤征爾指揮の「ザ・グレート」を聞いていたが、ついに眠りこむ。目が覚めると、口内炎の痛みがかなり良くなっている。やはり、休むに限るのだろう。
●7月19日から読み始めたモリスの『アイスランドへの旅』(A JOURNAL OF TRAVEL IN ICELAND 1871)を読み終わる。レイキャビックとオーロラしか知らなかったアイスランドだったが、野営と農家などに泊まりながら馬30頭を連れた男4人とガイド二人の、荒々しい自然の旅は、明治時代初めのこととは言え、半ば、共に行動している気持ちになった。特におもしろいのは、農家や牧師の家に泊まり、その家の銀のスプーンや主婦の編んだソックスを買ったり、牧師には古い写本をいらないかと勧められたりするところ。キャンプ地では千鳥や雷鳥を撃ち、鱒を釣り、それを食事に供することなど。今では経験できそうにない。
今はアイスランドでは、みんな英語を上手に話すようだが、モリスが旅した当時は、英語が通じなくて、それが、どこかこの旅日記を面白くしている。モリスはアイスランド語を勉強して旅立っているが、私もほんの少しアイスランド語を知るようになった。多くの人が知らない言語を知ったのも、小鳥の会話を小耳に挟んだ感じがする。
モリスはこの旅日記を表すために、一日の終わりにノートに克明に記録している。そして2年後の1873年、次のアイスランドへの旅に出る直前に清書をし終え、友人のバーン・ジョーンズ夫人へプレゼントされたとのことで、生前は出版されていない。
私はイギリスの旅日記、尾瀬の旅日記を水煙と花冠に掲載しているが、その二つは前半のみである。後半をまだ書いていない。ドイツの旅は時々思い出して書く程度で全くと言っていいほど書いていない。今思えば旅の一日の終わりに、きちんとノートにメモを残し、旅を終えて落ち着いて清書すべきだったと思う。
今ひとりの暮らしになって、自分に何が残されているかと言えば、すべてが何もなく、「書く」ことだけしか残っていないと思える。ガラスペンがインクを含んでいる間は書けると言う類のものにすぎないが。