10月18日(金)

曇り、夜雨
臭木咲く崖よりボール跳ね落ちる  正子
臭木の実名にも似合わず藍つぶら  正子
栃の葉の虫くいだらけ秋の暮    正子
きのうは、激しい運動とか、何にもしないのに、心臓がおかしい感じがしたが、早く就寝することしか思いつかなかった。それで馬鹿みたいに早く寝たら、今朝はすっきり。何事もなかった。
夕方散歩に出て帰るときには汗をかいてしまった。寒暖差がありすぎる。
Essay
(十六)リルケと俳句について
リルケがハイカイに出会って以後に作ったフランス語の24の短い詩篇が俳句の影響を受けていることについて、「リルケの俳句世界」(柴田依子著)で詳しく述べられている。
日本の思想がヨーロッパの思想に深く影響をあたえており、単に日本趣味に終わっていないのである。そのことに注意したい。次に「リルケの俳句世界」を参考にしながら、その影響をかいつまんで述べる。
(一)
リルケは短い詩篇「薔薇(たち)」で、彼のテーマとしている「生と死の統一体」)を詠むことを忘れず、それを中心に据え、俳句の定義である「短い驚き」と「我々の心に眠っている何かの印象を目覚めさせてくれる」に応えて詠んでいる。四行ずつの二連(二つのかたまり)からできている。

「生と死の統一体」を少し詳しく述べると、リルケは、生と死を対立するものとしてではなく、ひとつの連続した世界と考えていて、生の中に死が含まれており、死もまた生の一部であるという視点をもっている。例えばリルケの詩では、花が咲いて枯れる過程が生と死の連続として描かれている。これは、日常の中にある変化や移ろい、そして死もすべて自然の一部であると考える俳句の精神に通じている。

詩篇I(薔薇)
(第1連)
おまえの爽やかさがこんなにも私たちを驚かせることがあるのは
幸福な薔薇よ、
おまえ自身の内で、内部で、
花びらを花びらに重ねて、おまえが休んでいるから(柴田依子訳)

(Les Roses)
Si ta fraicheur parfois nous etonne tant.
heureuse rose,
c'est qu'en toi-meme, en dedans,
petale contre petale,tu te reposes.

この詩でわかりにくいのは、
「おまえ自身の内で、内部で、(toi-meme, en dedans,)」だが、これは、「薔薇自身のそのものの本質的な姿」、薔薇自身の内面の美しさをいうのであろう。そう考えるとこの詩は、「薔薇の花よ、おまえの爽やかさに、ときにそんなにも驚くのは、花びらを花びらに重ねて安らう薔薇自身のそのものの姿からなのだ。」と解釈できるのではないだろうか。「薔薇そのものの姿」「その存在の形象(姿)」の表現に「おまえ自身の内で、内部で、(toi-meme, en dedans,)」はいかにも私には難しい。第2連に繋がってわかるのだが、薔薇はリルケ自身の内面であり、内部とはリルケ自身の内部ととれるリルケ的表現なのだろう。「爽やかさ」は雰囲気ではなく、「具体的に」薔薇の花びらの重なりを詠むに至っている。「休んでいる」には薔薇の存在感と幸福感を表すのにふさわしく、詩人の感受性の深さが知れる言葉であろう。

これは私の思うところだが、俳句ならば、第1連をもって詠み終わり、第2連は詠まない。第1連でリルケの言う未完のままで終わり、第2連の内容を読み手に要求する。読み手の理解と把握によって俳句は完成するものだと考えている。ここで、俳句の詠み手は、読む者に第2連の内容が導きだせるよう、言葉を用意しておかなければいけない。

(第2連)
すっかり目覚めている全体、その中心は
眠っている、沈黙したその心の
数しれぬ愛のやさしさは、触れ合って
口の端まであふれている。

Ensemble tout eveille., dont le milieu
dort, pendant qu'innombrables, se touchent
les tendresses de ce coeur silencieux
qui aboutissent a l'extreme bouche.

「目覚めている全体」は「花、全体としては目覚めている」
「その中心は眠っている」は、「薔薇の中心は眠っている(ように見える)」
「数しれぬ愛のやさしさ」は「重なりあう花びらが触れ合うのが愛のやさしさ(と見る)」
「口の端まであふれている」は「薔薇の花びらが完全に開き、その美しさがあふれ、まるで口を開いているかのように咲き誇る姿の比喩。薔薇の花の広がりとその豊かさを強調している。」
(二)
また、リルケはクーシュー仏語訳の日本の俳句158句のうち36句に特に注目している。これにより、リルケの関心のありどころが分かる。
①花や月を詠んだ句。
「咲くからに見るからに花の散るからに 鬼貫」
「知る人にあはじあはじと花見かな 去来」
「中々にひとりあればぞ月を友 無村」
?死や無常をさりげなく詠んだ句。
「身にしむや亡き妻の櫛を閨に踏む 蕪村」
「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 芭蕉」
③一つの世界にある矛盾・対立。
「起きて見つ寝てみつ蚊帳の広さかな 伝千代女」
          (※伝千代女は加賀千代女とは別人江戸中期の俳人)
④ウィットのある句。
「手をついて歌申しあぐる蛙かな 宗鑑」
「追剥を弟子に剃りけり秋の旅 蕪村」
(三)
日本語では、主語が省かれている文は自然であり、また、俳句は主語の「私」は省かれている。英語、ドイツ語、フランス語では普通主語は省かれないが、リルケの詩篇XIV「薔薇(Le Roses)」はほかの詩篇と違って、主語にあたる「私」(je)が省略されている(「リルケの俳句世界」)。これについての柴田氏の言葉を要約すれば、「私」を消し去り、花や月を「友」とする俳人の境地や言語表現に通じているということだ。リルケはフランス語では省略しない主語の「私」を省略し、つまり消し去り、俳人の境地や俳句表現に習ったということだ。そして、またこの詩篇XIVは蕪村の「散りてのち面影に立つぼたんかな」と似通った世界を詠んでいるという。蕪村の句にインスピレーションを得て詩が成ったのだ。
鬼貫の「咲くからに見るからに花の散るからに」には、「甘美で無限の広がり」を感じ取っている。この句の仏訳を通して事物が「眼に見えるもの」から、「眼に見えぬもの」へ変容しているとも言う。これを私は「目の前の具体的な物が、俳句に詠むことによって、精神世界のことになる」と解釈する。
クーシューの仏語訳句や注釈から多くを吸収したが、それに加えリルケ独自の芸術観をもったと言われる。三つが主なものとされる。
①「短い驚き」と呼ばれるが、それにもかかわらずそれに出会う者を長くひきとどめずみはおかない芸術。
?一篇の詩には、言葉や詩節の間のすべてに、現実的な空間が入っている。
③丸薬を作り出す術のように、ばらばらの要素が、出来事が起こす感動によって結びつけられる。(正子注:丸められる。)その感動はすっかり単純なイメージになる必要があるが、眼で見えるものは確かな手でつかまれ、熟した果実のように摘みとられる。しかし、それは少しの重みもなく、手の中におかれるやいなやそれは眼に見えないものを意味せざるを得ない。
③はわれわれが俳句を詠むときのこと、またできた俳句のことを思って見るとよいだろう。いろんなことから感動があり、単純なイメージが浮かび、俳句を作るが、できた俳句は、目の前の物ではなく、物の重みを失くして、精神世界の俳句となっている。
また、リルケは俳句のなかに、西洋の詩には存在しない彼が希求してきた新しい詩芸術の実現を見出していると言われる。リルケは俳句に出会う半年ほど前「言葉の格だけからなっている言語」を求めていたことやクーシューの書を介しての俳句体験が彼の最高傑作と言われる『ドゥイノの悲歌』完成へのインパクトを与えた可能性があると、H・マイヤーが論文で指摘しているということだ。リルケの俳句体験は、リルケが詩人としての使命を果たすのに影響を与え、また、晩年の詩境解明の鍵となるのではないかと、柴田氏は述べている。
このように見て来ると、リルケにとっての俳句は、もともと彼が希求していたことや、彼の世界観に合致したのではないかと思える。そうでないと、これほど深く詩作に吸収できたとは思えないからである。
次は俳句体験をしたリルケが最終的に到達した詩境『ドゥイノの哀歌』を読んでみたいと思っている。今第十哀歌まであるこの詩の第一哀歌を読んだところである。幸い信之先生の遺した本にリルケ作品集の原詩があるので翻訳に頼りながらも、共鳴するところがあれば幸いであろうと、読めることを楽しみにしている。

10月17日(木)

曇り
白萩のこぼるるつけ砥部の庭   正子
白萩の中の二本が紅の萩     正子
金木犀の匂いただよい木を探す  正子

●行方不明になっていた大学の卒論がでてきた。特別変なところにあったわけではなくて、自分の本を入れる棚にあった。これはよかったが、まだ大事な本が何冊か出てきていない。大事にし過ぎてわからなくなっている本がまだある。信之先生の大連時代の写真も行方不明。あまり大切でないものを大切だと思っているのかもしれないのだ。

1969年の愛媛大学の卒論で私はリルケのフランス語の短詩を紹介した。柴田依子氏によると、ヨーロッパでリルケへの俳句の影響言及されたのが、1961年ヘルマン・マイヤーによってであり、日本でリルケへの俳句の影響が論証されたのは、東大教授の富士川英郎氏によって1980年だと言う。
卒論の事で思い出したが、卒論で使ったアール・マイナーの比較文学の本が行方不明になっている。プリンストン大学から出版された本だが、都立大学の金関寿夫先生に手紙をかいて、紹介いただいた本だ。学生だった私に丁寧な手紙をくださった。大学の教師は学生には本当に丁寧に接してくれる。冬絵不明になっているのは、ハロルド・ヘンダーソンの本もなのだ。大事でないことに引っかき回されていたのだろう。暗澹たる思いだ。

グンデルさんとモニカさんからのドイツ語の手紙も出て来た。高橋ファミリー宛ても、ゲンとクミコ宛もあった。会ったときはフランクフルトのゲーテ大学の学生だった。今は六十歳近くになっているだろうが、彼女たちはゲーテ通りで画廊を経営していた。そこに信之先生の俳句の額や掛軸を展示してもらったが、掛軸はオーストリアの人がわざわざ買いに来てくれたり、展示会のことがフランクフルトの新聞に載ったり、ちょっと評判だった。フライブルグに留学中の森先生も見に来てくれた記憶がある。
●追記:12月22日のテレビの回顧放送で高階秀爾さんが本日亡くならられたことを知ったので、ここに追記する。

10月16日(水)

曇り
真夜の月流れる雲のつぎつぎと  正子
油彩のごと肩張る林檎仏前に   正子
秋なれば多めの茸グラタンに   正子

●昨日の十三夜の月は綺麗だった。もうすこし膨らんでいるイメージがあったが、細い感じがした。洋子さんの返信メールでは、松山は雲間から、栄太郎さんの俳句からは、京都では曇りらしかった。きのうは昼間すこし暑かったせいか、十三夜の月に、樋口一葉の『十三夜』を思い出すこともなかった。十三夜のころは、夜は虫が弱弱しく鳴いて、さびしい感じするのに、そんなこともなかった。

●鵯や四十雀の声がまた聞かれるようになった。鵯が朝からかまびすしい。暑い夏の間、山に行っていたのか。生協の配達で大洲の里芋が届いた。日曜日に芋炊きをすることに決め、ビニール袋から出して新聞紙に包んで保存。鮮度が良かったので安心。
 
Essay
(十五)リルケと俳句について
人物:①「リルケの俳句世界」の著者の柴田依子氏は、フランス語に基軸を置いた研究者と思われる。
?クーシューについて。フランスの俊秀クーシューが24歳という若さで来日し、日本の文化に接したことは、日本文化にとって幸運なことだったと思われる。
以下が『俳句のジャポニスム』(柴田依子著/角川俳句選書/絶版)の紹介記事からの俳句に該当するクーシューに関する文である。

1903(明治36)年、フランスの俊秀クーシューは24歳で来日し、約9か月間にわたって、みずみずしい感性をもって異質な文化と社会に接している。
クーシューは、まず14首の和歌をフランス語に訳し、つづいて、宗鑑・鬼貫・芭蕉・蕪村など158句の俳句の翻訳と解説をした。これほど多数の俳句がヨーロッパに紹介されたのは初めてで、これに刺激されてリルケも三行短詩を試みるなど、文化交流の上で画期的な役割を果たした。なお、1912年に日本や中国を再訪した。

10月15日(火)十三夜

晴れ
ひろびろと紺の深空の十三夜  正子
道に出て見上げる空に十三夜  正子
自転車の灯が来て止まる十三夜 正子

ネット短信No.424を出す。10月月例ネット句会の入賞発表と、来年度年会費と維持費の案内。   https://blog.goo.ne.jp/kakan02d

●いろんな林檎が出回るようになった。売り場には「お待たせしました。JA青森のりんご入荷。」とポップをついている。サンつがるが終わり,秋映、紅玉、フジ、トキなど。前に松山で水煙大会をしたとき、岩手の会員のかたが、松山城の二の丸庭園の蜜柑をめずらしそうに、しばらく眺めていたが、私なら、岩手行ったら、林檎の木をつくづく眺めるだろう。

(十四)リルケと俳句について
リルケを読むようになったいきさつは最初(一)に書いた。『ドゥイノの哀歌』の第一哀歌を読みつつ思うことだが、十代から今に至るまで俳句を60年間詠んできて、人生のほとんどを俳句に充てて(それしかできなかったのであるが)よかったのかを検証できそうな予感がしてきたのだ。肯定を期待している気持ちが働いているとも言える。しかし、よく読んでみなければわからない。

第一哀歌にある、なぞえの丘の樹、歩いてきた道、犬のように慣れまとわりつく習慣、窓辺から聞こえる提琴(バイオリン)の音色、そして夜。われわれはこれらから委託を受けていると考える。「委託」という考えは、日本人の私からは、逆の発想に思える。が、そうなれば、委託にどう応えるか。私の場合は、それが俳句を作ることなのだろうと、思えるのだ。信じるもの、恃むものからの委託ということになる。

10月14日(月)スポーツの日

晴れ
ほっこりと陽がさす森の木の実雨       正子
風吹けば青き木の実が降ってくる       正子
なんの実か覗けば赤ある檀(まゆみ)の実   正子
●1年ぶりに句美子たちの家にいった。1年以上になるかもしれない。駅前は道路工事を長らくしていたが、工事が済んでからは落ち着いて、街の様子は全然変わっていない。これだけ都会の中であるのに、時が止ったかと言うほどだ。丘のほうに有名な斎場があるので、いつも喪服の人に会う。今日も行きも帰りもだ。乗ったときは、葬儀の帰りかなと思うが、降りたところを見ると、これからお通夜に出かけるのだとわかる。

●句美子のところからの帰りの電車で、『神さまの話』(リルケ著/谷友幸訳)をぱらぱら読んだ。引き込まれて読む話ではないが、つくづく翻訳文のよさを感じた。言葉が少し古くて、やわらくて、品がある。もう、このような文章を書く人はいないだろうと思うと、時代の言葉というものが、貴重に思われてきた。翻訳者はどんな風貌の方だったのだろう。
●元新聞記者の政治の話にあった。「石破さんは突っ張るしかないんですよ。」と。たしかに「突っ走る生き方」がある。この生き方を忘れていた。

10月13日(日)

晴れ
甘藷蒸かす大きな蒸し器の時代物   正子
はらはらと塩をかけられ蒸かし藷    正子
紫蘇の実の天ぷら香るひとりの餉   正子
10月月例ネット句会
投句
日にそよぎ日に染められて曼殊沙華(訂正)
星あかり地に棲む小さきものの声
うす紅葉金の御身の九品仏
浄真寺の三品堂に祀られる御仏は全て黄金色で、外のうす紅葉を引き立てる。金の御身が良い。 (廣田洋一)

●世論調査の電話があった。いつもは電話を切るが、今日は参加した。支持政党と投票は誰にするかなど。
ガザの子どもと原爆の子を比べるのは時代が違うとイスラエルが非難。どの時代でも、どこの国でも子供は幸せであるべきなのに、なんということを。

●リルケについて少し知るうちに親しみがもてるようになったが、ここが危ないところなのだろう。一応、リルケの読み方というものがある。それを教えてもらったわけでもなく、もちろん自分の「リルケの読み方」が確立しているわけでもない。一つの本を読み、前の考えを訂正し、また別の本を読み、また訂正し、となって、結局何を知り、何がわかったというのだろう。はじめは、「リルケと俳句」についてだけ知りたかっただけ。だけれど、すべてが過程。落ち込んだのか、迷っているのか、自分ではわからないが、あまり、いい気分ではない。昨日、今日、『神さまの話』(リルケ著/谷友幸訳)を読んでいるせいかも知れない。それでどうしようもないので、ベートーベンの「皇帝」を聞く

10月12日(土)秋祭・宵宮

晴れ
宵宮の御輿据えられよく光り  正子
宵宮の杜の木立に燈が灯り   正子
祭り来とわが家の花に野の花を 正子
●夕方駒林神社の宵宮に行った。五時前だったので、ちょど御輿を据え、準備ができて、町内会の役員たちが一服しながら何か飲んでいるところだった。売店の準備もできていた。やきとり、綿菓子、ポップコーンを試しに作っているところだった。水ふうせん、おおきなボールにカラオケの舞台などがあった。祭りのお囃子を小さく流している。東にある小さい本殿と西にある小さい稲荷社に賽銭をあげて、見るものもないので帰った。賑やかではないが、里祭りのなつかしさがいっぱいだった。
●『神さまの話』(リルケ著・谷友幸訳/新潮社)は初版が昭和28年。平成23年51刷とある。一話だけ読む。それは「闇にきかせた話」で、幼いころ、幼友達のふたりは遠い親戚のお金持ちの人が来るのを待つが、ついに来なかった。大人になって二人の幼なじみは、また会うことになって神を待つが。とうとう神は来なかった。この『神さまの話』は25歳のときの2か月のロシア旅行の成果だそうだ。
花」と言えば、
何の花を思い浮かべるだろうか。AIに5つ挙げてもらった。ぱっと思いうかぶのは3つ目ぐらいまでだろうが、4つ5つ目も「らしさ」がある。
クーシューが「咲くからに見るからに花の散るからに 鬼貫」を注釈するのに、「一瞬の閃きのうちに、万象の途切れることのない流れと、」と言っている花を感じさせるのはどの花か。AIのあげた花を見ても桜以外に考えられない。桜はきわだって特別な花と思える。木の花であること。いっせいに咲くこと。いっせいに散ること。花期が短いこと。ボリュームがあること。日本中にあること、そして重要なの大勢の人が翌年の開花を信じて楽しみに待つこと。
フランス:バラ・リラ・チューリップ・ヒマワリ・スミレ
ドイツ:バラ・ヒナギク・ヒマワリ・バンジー・ゼラニウム
スイス:エーデルワイス・アルペンローズ・リンドウ・アネモネ・カランサス
オーストリア:エーデルワイス・アルペンローズ・リンドウ・マグノリア・ペンステモン
イタリア:ヒマワリ・ポピー・ラベンダー・アイリス・カモミール
イギリス:バラ・ブルーベル・ヒナギク・ポピー・ラベンダー
日本:桜・梅。菊・藤・つつじ

10月11日(金)

晴れ
快晴の空へ鵯飛び出し     正子
貴船菊紫あれば白もあり    正子
新聞に挟みし紅葉のこと忘れ  正子

●気持ちよく晴れた。図書館へ本を返却。新しく借りた『「日本の伝統」の正体(藤井青銅著/新潮文庫)を読んだ。面白いような退屈なような、本だった。古い伝統のあるものが、実は新しいものだったり、伝統の正体は本当のところどうなんだ、と言う話が46項目について考察されている。
「東洋」についてが目新しかった。「桜」も時代による種類の違いを考えなければいけないと気づかされた。西の芭蕉の鬼貫の詠んだ桜はどの種類の桜か、早速、調べる。
●2024年ノーベル平和賞が「日本被団協」に与えられた。この賞に対して、はじめNHKは戸惑いを見せていたし、複雑な心境なのだろうと言う印象をもった。ノーベル文学賞も韓国の女性作家に与えられたが、世界情勢を反映している。核兵器がいますぐにも使われそうな戦争の雰囲気だし、北朝鮮の問題もある。ノーベル賞の姿勢がよく見えたように思えた。

10月10日(木)

曇り、ときどき晴れ
 にんじんケーキが焼けたので
友訪ぬ葛と穂草の道を踏み       正子
  バッハを聞いて
身に入むに「人の望みのよろこびよ」  正子
夜寒さの床(ゆか)にリルケの本三冊   正子
●寒露がすぎて、すっかり晩秋らしくなった。人参ケーキを焼いた。新しいオーブンでケーキを焼くのは初めてなので、焦げ過ぎないようにするのに苦労したが、何とか、しっかり焼けた。人参ケーキはこれまで何本焼いたか数知れないのに、オーブンの機嫌をとるのは難しい。冷めたところで半分を晴美さんに持って行った。

●ここ寒暖差がひどくて、11月ではないか、と思うこともある。そろそろ花冠の編集に入らなければいけないかと思ったり。いや、もう少しあとでもいいのではと、思ったり。季節を読みとる感覚がどうにかなっている。
●「俳壇」11月号が届く。俳人の大井恒行さんが「俳壇時評」で「現代俳句協会は、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会から離脱せよ」の文を書いていた。推進協議会ができた時の会長は有馬朗人先生だった。私などが言うのもどうかと承知しているが、「なんと馬鹿なことを」を思っていたので、大井恒行さんのような意見があることを嬉しく思った。俳句はゲーテが言うような「世界文学」になっている。一応、われわれは俳句を文学と考えている。こんなことを考えると、細部の意見はそれぞれ異なると思うが、世界遺産への登録は止めておくのがいい。
『世紀末ウィーン文化評論集』(ヘルマン・バール著/西村雅樹編訳/岩波文庫)の「日本展」のところを何気なく読んでいた。これはヘルマン・バールと言う評論家が「日本展」について書いたものを西村雅樹先生が訳されたもの。パリやウィーンでの万国博覧会に出展された日本の絵画や工芸品、果ては民具などを通して、19世紀末ヨーロッパで日本流のものが芸術家たちに大変関心を持たれ、根本的なところで影響を与えたたことを述べている。前にも読んでいたので、知識としてそうなのだと知っていた。しかし、どのくらい?どんな感じで?というのが実感としてわからなかった。それが久しぶりに本を開いてリアルにわかった気がした。

「日本展」にバールが書いてあることが実感でき、これはこの事を言っている、あれは、あのことだろうと繋がってきた。日本流のものの流行りはジャポニスムと呼ばれる。
なぜ実感できるようになったのかは、ここ涼しくなってからの、私の事を振り返ってみるとわかる。第一に。ネット上に公開された大学の論文のお陰と言えるのだ。ジャポニスムについて疑問に思ったことは、ネット上でそれに関して大学や国会図書館、情報研究所が公開している論文が読めたことが大きい。だれかが、考えてくれている。論文は7本読んだだけだが、ジャポニスムについてはゲルマにストの先生方の功績が大きいと思えた。同時に「リルケと俳句」についての論文もネットから印刷して読むうちに繋がるものもあった。多層的に理解できたと言える。
またヴァーチャル・ツアーのお陰もある。「モネのジヴェルニーの家」などが論文の実際を見せてくれた。「セザンヌとリルケ」の論文で、セザンヌの画が見たいと思えば、ネットを探せば、解説付きで見れた。クリムトの画も、北斎漫画も、富岳三十六景も見れた。
また、図書館の本は二、三十年前の本がほとんど。この古さが深いところで関連性を気づかせてくれるので役立った。「日本展」がよく読めるようになったのが、この秋のみのり。

10月9日(水)

雨のち曇り
りんご噛みりんごに混じる味のなく  正子
どんぐりの供物にまじり供えあり   正子
秋冷の野に食ぶたまごサンドウィッチ 正子

●今日も雨で最高気温17℃。すっかり晩秋の気配。生協の配達でおでん材料が届く。ミニ大根を間違えて二本注文していたが、多分使い切れるだろう。

『近代絵画の巨匠たち』(高階秀爾/岩波現代文庫)を読み終える。ボナールは晩年とくに身辺の物や景色や人物を描いているので、親密派とも呼ばれている。ナビ派にも参加していたが、本気ではなかったようだ。浮世絵版画の影響を受け、日本美術に大変関心を寄せていた。モネ、セザンヌ、ゴッホのほかにボナールまでとは驚きだった。(もちろん彼らの前にクリムトも浮世絵や日本美術の影響は受けているが。)庭に自ら好む植物を植え、植木屋には手を入れさせなかったという。葬儀の日の朝、ミモザやあんずの木にめずらしくうっすら雪が積んでボナールを悼むかのようだったという。最後に描いた「花咲くあんずの木」(1947年)のあんずはボナールのもっとも愛した木と言われて、見ていると懐かしいような画である。あんずは人によってはアーモンドとも呼んでいるけれど。彼が住んだ家は霧に透けた屋根がばら色に見えるので「小さなバラ色の家」と呼ばれ、幸福な画家とされている。亡くなるときは、「逆光の裸婦」などに描かれた妻(愛称マルト)も亡くなっており、孤独に暮らしたということだ。あんずの木は昔生家にもあって、この花のやさしさは子どもの心を癒したと思う。
「ボナールとマルト」のフランス映画が今年9月24日日本で公開されたということだが、見たかったな。最近ボナールの人気が高まっているようだ。