雨
10月6日(木)
雨
10月5日(水)
雨
かすみ目を休めて食べる青蜜柑 正子
鍋つかみを作る夜なべのキルティング 正子
翻訳に気折れをしたり露寒し 正子
●目覚めると予報通り気温が下がり、雨。生協の配達あり。おでんの材料を頼んでいたので、すぐ役立った。夜はおでん。蜜柑も頼んだが、青蜜柑ながらおいしくなっている。シトラス21という九州の生産グループの蜜柑。
●今月の月例句会は、2日が第一日曜日なので、9日が第2日曜となる。うっかりして、10月例ネット句会の案内を出すのが遅くなって、今日気づいて案内を貼りつける。今月は気を付けなければと思ってはいたのけれど。
●句美子の子供時代の俳句50句の英訳を一応終えたが、やはり、謎が深まるばかり。誰に頼まれたものでもないが、気が折れる。すこしの可能性にかけて、頑張るか、とも。ひとり気折れて、ひとり、奮起する。なにか、気が済まないものがある。
10月4日(火)
晴れ
●よく晴れる。夕べ寝る前に洗濯して干した物が、朝10時過ぎにはすっかり乾いていた。天気がよいのは今日まで。あすから曇りや雨で気温も下がる予報。
●夜、ゆうじさんから電話。句美子の句集『手袋の色』について、感想をもらう。
10月3日(月)
曇り
竹の春竹幹の色いろいろに 正子
秋草の刈られて土の道きよし 正子
からすうり遠目に熟れて垂れ下がり 正子
●今日は曇っているので、信之先生の散歩によいので近所を歩く。鯛ヶ崎まではいけなくて、近所を300mほど歩いただけ。それでも気分転換にはなったようだ。竹林の様子を見たり、からす瓜を見つけたりした。からす瓜はよく見かける。
●ノーベル賞の発表が始まる。
●句美子の句集『手袋の色』から子供時代の俳句「貝がら」の50句の英訳をラフながら終える。
●今日は少し裁縫をする。前作ったのと同じペンケースを作る。ただ裏布は先日買った小花柄を使う。
10月2日(日)
晴
多摩川を渡る車窓に秋夕焼 正子
子を見舞う秋夕焼も暮れてきて 正子
秋祭りの物いろいろとガード下 正子
●句美子の熱が一か月ぶりに下がり安心する。スイートポテトを作って見舞に持参。鳴門金時で作ったが、水分が少ないさつま芋なので、裏ごしがなかなか大変だった。バターと黍砂糖、牛乳を切らして代わりに水少々。これが意外と美味しかったらしく友宏さんが大いに気に入る。来週はたくさん作って持って行くと約束。
10月1日(土)
晴れ
●北村ゆうじ『朧』(森の座発行所2021年5月刊)より
好きな句20句
雑木山あるきひとりの小春かな
初空に老いの凧糸群を抜く
こんなに軽ろく命宿して草の絮
落ち葉踏むだけのふるさと途中下車
黄落の光りあつめて草田男碑
穂高小屋雲を沈めて夏炉の火
半世紀都会くらしも朧にて
滝音をいくつ耳にし天城越え
久々の妻の和服や初芝居
白き嶺つらね伊那谷花匂ふ
獅子のごとミモザ抱えて友来る
灯下親し母に抱かれし我が写真
日向ぼこうとうとと我を見失う
麦秋を来る友迎ふ上野駅
蓑虫のやうなこの餅さくら餅
二階窓あけて妻呼ぶ十三夜
ふる里より流れ来たかよ秋の雲
花時に合はせ信濃の墓参り
そこ踏むなこぞり芽を出す曼珠沙華
ウナギ焼く団扇でわが身扇ぎをり
東京で暮らしながらもふるさと長野への郷愁が晩年ますます募っている。その思いを補うかのように都会の暮らしに、庭の畑に野菜や花を育てながら、子や孫に囲まれ幸せな老後の生活がある。焼き鳥や鰻の一流の職人としての人生を全うされつつあることは第一句集『初商い』を共にした句友達としてうれしいことである。
9月30日(金)
曇りのち晴れ
●センター北のJA直売所に里芋やほうれん草を買いに出かけたが、今日は棚卸で休業。しかたなく、近くのロピアでピオーネ、ポンパドールでシュガードーナツ、ユザワヤで小花柄の小切れを買った。
●『たのしい世界の国』(髙橋書店)、『電気とエネルギー』(ナツメ社)が面白そうなので買う。元希用。きのうは『まんが日本の歴史7』(角川)と『算数の図鑑』(誠文堂新光社)を送った。
9月29日(金)
曇り
●家を一歩出ると、金木犀がよく匂う。近所の空き家の金木犀からいい匂いがただよってくる。空き家になってから剪定をしないせいか、急に大きな木になっている。金木犀が匂うと祭が近くなる。そういえば、先日祭りの案内の回覧板が廻って来ていた。
●焼き茄子が急に美味しくなる。子どものころから焼き茄子は大好きだったが、最近は茄子のせいか、それほど美味しいとは思わなくなっていた。秋茄子となった今朝は、すごく美味しい。焼いてすぐ氷水には入れないで、熱いところを皮を剥くのが私流。
下記でも活動しています。
*自由な投句箱
*花冠月例ネット句会
*正子の俳句掲示板(元俳句添削教室)
www.21style.jp/bbs/ kakan02
9月28日(水)
晴れ
●俳句歴を示すとき、おかしな現象が起きている。論文を書くときに、参考資料、参考文献を書かないのと同じようなことが起きている。研究論文は今たちどころに書く人だけの業績で成り立っているわけではない。先人の研究の積み重ねでできているので、根拠となる参考文献をあげなければ、いけないことになっている。中学生の作文でも参考文献はあげなければいけない。
俳歴を示すとき、自分が世話になった師や結社をとるに足らぬものとして、あるいは、社会的損得の見地から書かないケースがたくさん出てきている。その人の俳句の形成は初心のときに決まるといってよいが、師が著名でなければ書かないのだ。著名かどうかは、今はジャーナリズムによって決まっているので、本当の価値ではない。ジャーナリズに左右されて、俳句の伝統は既に失われている。
そう結論付けたのは、初心でお世話になったので、今回第3句集を出すので、原稿を読んでほしいと送ってきた人がいた。第2句集も入れてあった。そこでの俳歴にはちっともそのようなことは書かれていなかった。こういうことは、この人ひとりではない、今春出されたの句集にも見られた。十数年前の句集にも見られた。「田舎者」という単語があたる。私も田舎者で、田舎の様子を知るだけに、この単語をあてる意味はある。たしか実際「田舎者」には俳句はできないといわれていたことがある。
このことをよく踏まえて、俳句を考えなければいけない。妙なかたちで俳句を流行らせて、誰でもが俳句を作るのはよいが、人としての誠実さが失われているのにも頓着しない。今後は莫大な指導料を要求しなければ俳句の指導が成り立たなくなる。
先日亡くなったエリザベス女王を称えるのに、まず「faithful」と言う言葉が幾度となく述べられていた。日本語に訳しきれない意味があるが、忠誠とか、誠実とか正直とか言う意味がある。
安倍総理の国葬があったが、政治家に足りないのは「誠実さ」「正直さ」だと思う。