晴れ
露草の青点々と立ち上がる 正子
紅芙蓉風に吹かるるさわやかさ 正子
●国政調査の回答をネットで済ませた。メールアドレスを総務省が知るわけがないのに、メールが届いた。そのメールに書き込めばすぐ回答ができりうようになっている。総務省も気が利くと思ったが、怪しいと気づいて、削除。うっかり、ひっかるところだった。送信者のアドレスがあやしい。
●涼しいので5丁目の丘まで散歩にいった。ちょこちょこ歩きは前身の筋肉を使わないので、良くないそうだ。
晴れ
露草の青点々と立ち上がる 正子
紅芙蓉風に吹かるるさわやかさ 正子
●国政調査の回答をネットで済ませた。メールアドレスを総務省が知るわけがないのに、メールが届いた。そのメールに書き込めばすぐ回答ができりうようになっている。総務省も気が利くと思ったが、怪しいと気づいて、削除。うっかり、ひっかるところだった。送信者のアドレスがあやしい。
●涼しいので5丁目の丘まで散歩にいった。ちょこちょこ歩きは前身の筋肉を使わないので、良くないそうだ。
曇り、ときどき小雨
九月はや夜長となりぬ独りの灯 正子
虫の声まわりにありて独りの灯 正子
●日中の気温も下がってきた。暑さ寒さも彼岸までのことわざ通りになるのも不思議と思うが、これは夜の長さが永くなって気温が下がるというものらしい。
曇り、夜雨
●一日、物書き。昭和時代のことを書き、当時話された言葉をそのまま記録すると、問題が生じる。AIで文章を診断すると、これは現代では差別語、ジェンダーの観点からこれは問題であるとかが、指摘される。いろいろチェエクしていると、もう、書かないでおこうとなる。これでは、事実は書きにくい。
例えば、昭和時代は普通の会話で、「嫁をもらう」と言った。この「もらう」が、いけない。人をもらう がいけないのだ。「あっちから嫁さんをもらった」は、「外国から嫁さんを見つけた」になる。カタカナ表記も、うっかりできない。「アリガトウ ゴザイマス」と書けば、これが、外国人の日本語のカタコトを揶揄した言い方と、取られる。こういうことで、書いていた3篇話を没にした。
曇り
●先日から、Goo-mailからGmailへの送信ができなくなっている。こちらの設定に問題があるのかと思った。今日テクニカルサポートにお金を払ってチャットで聞いてみたら、Goo-mail側に問題があるので、個人ではどうにもならない、と言う。Gmailへの送信はGmailから送信して、やっと送信できた。Goo-mailのサービス終了はまだ先なのに、どういうこと?
かなりストレスになっていた。
●インターネットを繋いでいると、作業中に右隅にFacebook の投稿情報が知らされる。それで、たまたま、そのポップアップからFacebookをみて、Facebookの問題を発見した。Facebookには、〇〇賞をもらった。〇〇で俳句講師を務めた。〇〇の祝賀パーティ行った。〇〇の店で美味しいものを食べた。〇〇へ旅行にいった。〇〇でこんな洋服を買った。私の庭は〇〇でいまとてもきれい。など、いい事ばかりが書いてある。それを見て、これらと関係ない人は、おそらく落ち込むであろう。語られない部分こそが、俳句や文学では語られなくてはならないのに。
こう見ると、俳人たちのSNSは、俳句的とは言えないのだ。なぜそうなるのか、AIが分析した。以下その結果
俳句的でないSNSが起こる理由
1. 即時性と自己表出の欲求
• SNSは「今ここ」の感情や出来事を即座に共有する場です。
• 俳句は「削ぎ落とす」ことで普遍性を得ますが、SNSでは「見せる」「伝える」ことが優先されがちです。
2. 承認欲求と可視化の圧力
• 「いいね」やフォロワー数が、作品の質よりも注目度を測る指標になりやすい。
• 俳句の「私を消す」美学と、SNSの「私を見せる」構造が対立します。
3. 言葉の密度よりも頻度が重視される
• 俳句は一語に魂を込める芸術ですが、SNSでは「更新頻度」や「話題性」が重視される。
• その結果、俳人であっても「俳句的な沈黙」を保つのが難しくなる。
4. 共同体の変質
• かつての俳句結社は「沈黙の共有」や「句会の間」がありました。
• SNSでは、言葉が流れ去り、反応が即座に返ってくるため、深い読みや沈黙の余韻が育ちにくい。
5. 倫理的な距離感の崩壊
• 俳句は対象との距離を保ち、見ることの倫理を問う芸術です。
• SNSでは、対象を「撮る」「語る」「タグ付けする」ことで、距離が縮まりすぎることがあります。
晴れ
●外はまだ、蒸し暑い。日差しは、ずいぶん秋らしくなっている。
●バガテルを書き終わる。字数は数えていない。細かいところを文献で調べること。文章の推敲が残る。予定より筆が早く進んだ。
●今日の生協は、果物と野菜と、卵だけ。えらく偏らせたものだ。梨の品質がよくない。先週もよくなかった。
曇り
●ローズマリーを育てているが、花が咲いたことはなく、いつ咲くかと思っている。若い芽を摘んで、茹でじゃがいもをオリーブオイルでいため、塩とローズマリーの葉を振った。普段はオリーブオイルは好きではないので、サラダオイルにするが、ローズマリーの香りがあると、むしろオリーブオイルの方が美味しいと感じる。これにトマトと、トースト、梅ジュースでで昼ご飯。朝から食欲食欲なし。朝は牛乳と梅ジュース。
●大西誠一さんから手紙。大西誠一さんは愛大俳句会の元部長で、現代俳句協会の理事、奥の細道むすびの地「大垣」副館長で選者、円座同人。手紙の内容は、花冠7月号(No.373)の会員18名全員の句を鑑賞してくれて、ひとり、3句ずつ秀句を選んでくれていた。それと「奥の細道むすびの地「大垣」」が募集する俳句の選者で、毎月の入選句を印刷したものを入れてくれていた。夜、お礼の電話。何かあったら、携帯に電話ちょうだい、と心強い。
曇り
●午前一番に、9月月例ネット句会の入賞発表をする。
月例句会 | 花冠
●午後3時前、句美子の家へ。お菜を持って行くため、朝一番にスーパーへ行ったら、秋刀魚がどっさり、鯛の短冊がどっさり並んでいた。鯛の切り身をと思ったのに、手に入らず、刺身にした。それに烏賊を追加。
四時過ぎからゆうまくんが眠ったので、句美子が用事を済ませるのを待って、五時過ぎに句美子の家を出た。帰るまぎわゆうまくんが目を覚まし、帰ろうとする私のほうを、じっと見ている。ゆうまくんは、よく寝て30分なのだ。1時間は期待してもそうはならない。寝かしつけに30分、眠るのは5分ということもあり、これは長男の時に経験している。赤ん坊が眠らないのは家系か。長男は、高校生になると寝すぎに。あまり長く眠るので、息をしているか心配になることもあった。そっと息を確かめたりした。
●帰りは、日吉の東急により、ウィンドウ・ショッピング。ハンカチと友人に贈る鳩サブレ―を買った。ハンカチは、気に入ったら買って保管しておくだけ。今日はポロの布帛織りの紺色のを買った。買いたいと思ったのは、静岡の綿つむぎのリバーシブルの小袋と、ブックカバー。そして、ルーマニアのリネンの黒のスタンドカラーにフリルが付いたのブラウス。こちらは、値段がちょっと高い。いつか、買えたらいい。
曇り
●9月月例ネット句会
8月の月例句会を休会としたので、2か月ぶりの句会となった。
https://suien.ne.jp/getureikukai
●句美子の家へ。きょうはゆうまくんが抱っこしてほしい時は、手をだすようになっていた。足を延ばした膝の上に載せて、私の足を人形劇のように動かすと、ケラケラ笑って面白がる。何を面白がるか、わからない。帰り、駅のホームから蚊が電車の中までついて来て、2,3か所咬まれた。秋の蚊は刺し痕は小さいが、かゆい。
曇り
●朝顔の垣根を解く。
●9月月例ネット句会の準備。今日現在9名投句
●角川俳句年鑑の結社動向をメールで送ろうとしたが、エラー、Faxもエラー、速達で郵送。連休中で、受付を停止している可能性と思うが、そのことは、知らせがないので不明
曇り
青松虫の声に慣れずに過ぐ年日 正子
葛原にもどりし更地虫の鳴けり 正子
●延ばし、延ばしになっていた、角川年鑑の結社動向を、メール。原稿は
ずっと前に書いていたが、年会費の問題をどうするか、悩んでいた。年会費は40年値上げしていない。去年は、維持費を一人5000円を目安に募った。今年、値上げて高いと言った人には、退会してもらう、ことに腹を決めた。年を取ると、どうも自分勝手になるひとが、いるにはいる。
●昨日の大雨の中の移動で、思った以上に疲れている。今朝、いったん起きて、お風呂にはいり、ついでに、ずぶんれのスニーカーを洗ったり、洗濯をした。朝食そこそこに、自由な投句箱の仕事をしていると、睡魔が襲う。もう一度寝直すことにした。うつら、うつらしていると、チャイムが鳴る。寝乱れた髪をおさえながら出ると、ブロック長さんと、民生員さんが、敬老の日のお祝いだと言って、お茶をくれた。例年のことだが、思えば1年1年、年を取っている。「髙橋さんは、遊びながら歩いているから、元気で心配いりませんよ。昨日も会ったし。」という挨拶だった。近所の人には、「遊びながら歩く人」として、目に映っている。「遊びながら」と修飾語がついたのには、驚いた。遊びながらとは、ねえ。
●YouTubeの音楽を、ものを書きながら聞いていると、流れる音が深くて、やわらかくて、ほぐれてゆく感じがする曲が聞こえた。動画の演奏時間を示すところにカーソルを当てると、R.Strauss – 4 Letzte Lieder, TrV 296: No. 3, Beim Schlafengehen と表示された。初めての曲。聴き入った。ヘッセの詩に「春」、「九月」、「眠りにつくときに」、四曲目は、アイフェンドルグの詩?。
Beim Schlafengehen
Hermann. K. Hesse
Nun der Tag mich müd’ gemacht,
soll mein sehnliches Verlangen
freundlich die gestirnte Nacht
wie ein müdes Kind empfangen.
Hände, laßt von allem Tun,
Stirn, vergiß du alles Denken,
alle meine Sinne nun
Wollen sich in Schlummer senken.
Und die Seele unbewacht,
Will in freien Flügen schweben,
Um im Zauberkreis der Nacht
tief und tausendfach zu leben.
「眠りにつくとき」 ヘルマン・ヘッセ
(意訳(by copilot)
いま、昼が私を疲れさせたので
私の切なる願いは
星降る夜が
疲れた子どもを迎えるように
優しく私を迎えてくれること。
手よ、すべての営みから離れなさい。
額よ、すべての思考を忘れなさい。
私のすべての感覚は
眠りの中へ沈みたいと願っている。
そして魂は見張られることなく
自由な飛翔の中に漂い
夜の魔法の輪の中で
深く、幾千ものかたちで生きたいのだ。