晴れ
路線バス団地の夏灯の中を抜け 正子
茄子ししとう色生きいきと煮びたしに 正子
オリンピック晩夏となりて泣く顔顔 正子
●こんなに晴れているのに、どこかで霧を発生させているのかと思うような小さい雨が降った。空が黒く曇りながら、太陽は疑う余地もなく灼熱の太陽なのだ。JAの直売所に行ったが、暑さのせいなのだろう、売られている野菜が少ない。それでもトマト、ナス、キュウリ、枝豆、ししピー、にんにくが買えた。これらはどれもおいしい。店員と農家の人が浜梨の話をするのが聞こえた。もうすぐ浜梨のシーズンが来る。
●メイ・サートンの日記を読んでいるが、その中に出て来るアルフレッド・オプラ―は、今、私の気になる人だ。彼の日本回顧録『日本占領と法制改革』について、次の文章をネットで見つけた。オプラ―研究は始まったばかりと言う。私がひとり誇りにするところは、私は新日本国憲法公布、施行の年に生まれ、日本国憲法と同い年であること。
メイ・サートンの日記では、1970年オプラ―夫妻はメイ・サートンを訪ねている。オプラ―夫人は1976年死去。この年、『日本占領と法制改革』を表。(日本では1990年評論社より翻訳発売)。1980年にニュージャージー州の老人ホームに転居後、1982年89歳で死去。
●アルフレッド・C・オプラーと内藤頼博と裁判所法
Alfred Christian Oppler(以下オプラー)は、1893年(明治26年)、ドイツ人裁判官の子として、当時ドイツ領だったアルザス・ロレーヌ地方で生まれ育ったが、第一次世界大戦後、同地がフランス領になったため、ベルリンに移住して判事になった。38歳でドイツ最高行政裁判所陪席判事、翌年にはドイツ最高懲戒裁判所副長官という「まれに見る経歴」で出世するものの、祖父母がユダヤ人であったことから迫害され、1939年(昭和14年)、命からがらアメリカに移住し、一事は庭師として職探しをするほど困窮したが、ハーバード大学で教職を得、1945年(昭和20年)に米国市民権を得た。
1946年(昭和21年)2月23日、米国防省の要請に応じて占領統治下の東京に着任し、民政局に配属される。当時はGHQ草案が日本国政府に提示された直後である。このようなタイミングから、オプラーは日本国憲法の制定にはほとんど関与せず、日本国憲法に基づく各種の法制度(憲法附属法)の制定に取り組むことになった。特に、裁判所法は、憲法の公布(1947年5月3日)から施行までの半年の間に、オプラーとその部下たち、及び日本側スタッフの手により法典化されたものである。このとき、日本司法省側の担当者として活躍した裁判官の内藤頼博は、信州高遠藩主の嫡流である。
1947年(昭和22年)3月12日、枢密院の御前会議で裁判所法案が議決されたとき、オプラーは内藤頼博の手を握って「あなたと私の間にいい子どもが生まれた。きっと立派に育つだろう」と述べたという。オプラー55歳、内藤39歳であった。
オプラーは、「占領法制改革に臨むにあたって、かなり早い段階で『日本の法体系がコモン・ローではなく大陸法に基づいている』という認識を示し、『アングロ・サクソンの法体系が大陸法のものよりも優れていると考えがちな傾向を』戒め」たという(出口雄一「『亡命ドイツ法律家』アルフレッド・C・オプラー」法学研究82巻1号)。
●独仏国境紛争地帯に生まれ育ち、ドイツ裁判官として栄達を極め、ユダヤ人の血統故に迫害された後米国民として占領軍に参加したオプラーの経歴は、裁判所法をはじめとする「憲法附属法」に込められた思いを忖度する際、欠かすことはできない。
オプラーは、1955年(昭和30年)に日本を去った後、1976年(昭和51年)に”Legal reform in occupied Japan”を著し、同書は1990年、日本評論社より、『日本占領と法制改革―GHQ担当者の回顧』として翻訳され出版された。同書の監訳をつとめたのは内藤頼博である。
1976年(昭和51年)、オプラーは夫人を喪い、1980年、ニュージャージー州の老人ホームに転居した。内藤頼博によれば、1981年(昭和56年)に再会した際、88歳となっていたオプラーは「日本の人たちは、今は私を忘れてしまった。しかし、私は彼らを忘れていない」と紙片に書き、内藤を悲しませた。実際のところ、憲法調査会(1956年~1965年)の会長を務めた高柳賢三東京大学名誉教授は、「占領軍の法律家の中には大陸法系の知識と理解を持った人は誰もいなかった」と発言し、オプラーを驚愕させたという。このときすでに、オプラーは忘れられていたのだ。(高柳賢三という名前を私はよく耳にした記憶がある。)
正子引用注:
大陸法とコモンローの相違点。
★コモンローは、大陸の慣習法とりわけ制定法とは異なり、裁判官法に依拠しする。大陸とは異なって、裁判所の判決が拘束力を有す(先例拘束性)。
★大陸法では、裁判官は法律に拘束されるのであって、先例にではない。
★諸裁判籍は、大陸型の法体系とコモン・ローとの間で国際裁判管轄の根拠づけにつき最初から著しく相違している。
1982年(昭和57年)4月28日、オプラーは89歳の生涯を閉じた。内藤頼博は、1973年(昭和48年)に退官した後弁護士になり、多摩美術大学学長、学習院院長を務めた後、2000年(平成12年)12月5日に92歳で死去した。裁判所法の制定過程に関して『日本立法資料全集』という大部の書籍を遺しているが、古書でなんと50万円以上するので、とても手が出ない。どなたか、貸して下さい。
日本におけるオプラーの業績の研究は、驚いたことに、始まったばかりである。
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