8月3日(月)


曇。8月1日に晴れたのが、梅雨明け。

●今朝の朝顔は大きめ。2丁目を歩く。このごろ予定時間がぴたりと合う。これには、信之先生も感心するくらい。そもそもはじめから少し余分に、途中とろとろしてもいいように時間をとって仕事なり、外出なりしている。最後を整えるためには、ゆるみや遊びが必要と思うようになった。

●昨日のラジオで「伝統文化ジャーナリスト」と呼ばれるジャーナリストがいることを初めて知った。東山文化についての講演だが、その中で、「伝統は引き継がれなければ伝統にならない。」と言っていた。それはそうだ。引き継ぐための苦労がある。伝統は古いとおもうかもしれないが、新しくしていかないと引き継がれない。それに、勝手な自論だが、伝統はらせん状に繋ぐべし。螺旋ということは、坪田譲治も言っていたと思う。

●花火について。今年はコロナのせいで、花火大会が中止になっている。花火の季語はもとは「秋」。送り火と関係している。私の「遠花火草に座り子供らと」の句評に洋子さんが、「初秋の・・云々」と書いてくれた。花火にある幾分の寂寥感は、やはり秋のものと思う。彼女の句評をうれしく思った。

●「緑さす」について。ものが緑がかってみえたり、単に感覚的にそう思えたりすることがある。外の木陰もそうであるが、家の中にいても外の緑を感じることがある。木々が周囲にしげっている昔ながらの家。昔の家でなくてもいいが。風が通り抜ければ、緑がさす感じになる。「笊にあげ緑さしたる冷そうめん」の有花さんの句評は、家内にさす緑であった。同じような経験をされたのかと思う。これもうれしい句評である。


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