★葛の花匂わすほどの風が起き 正子
縦横に延び広がる葛の野に湧きあがる風。葉裏を白く見せながら音をたてる広葉の間に、美しい紅紫色の葛の花が瑞々しい野趣を漂わせている。葛の花の意外なほどの芳香が胸を満たし、秋の訪れが実感され、嬉しく清々しい野歩きのひとときです。(柳原美知子)
○今日の俳句
雲流る空を降りくる赤とんぼ/柳原美知子
「雲流る」、「空を降りくる」に横と縦の繊細な動きが詠まれています。牧歌的な秋雲と、そこから降りてくる赤とんぼは、なにかを伝えに降りてくるようです。(高橋正子)
○凌霄(のうぜん)
凌霄花咲いて隣家の華やげる 高橋信之
凌霄の朝(あした)の花と目が合いぬ 高橋正子
凌霄の字義は、霄(そら)を凌ぐである。霄を凌ぐほどに天空高く咲き昇る花ということだろう。古名の「のせう」が変化して「のうぜん」になったとも、「凌霄」の音読みの「りょうしょう」が変じて「のしょう」になったとも言われる。華やかでロマンティックな花の雰囲気から、現代になって渡来したものかと思ったが、日本には平安時代の九世紀頃に中国から渡来したという。
「秋刀魚の歌」などで知られている文学者の佐藤春夫は「不老不逞でわが文学の象徴」とまで言い、戒名を「凌霄院殿詞誉紀精春日大居士」とするほど好んでいる。
さて、この凌霄の花に私が初めて出会ったのは、四〇年ほど前になる。俳句を始めて一年ほど経ったときのことである。汗をかきながら高台にあるお寺に登ってきて、涼風にほっと一息ついて見上げると、オレンジ色の華やかな花が空にあった。一緒にいた人に聞いて「のうぜんかずら」と教わった。場所は、広島県三次市。このとき、私は学生で俳句会に所属していたが、独文学者で宗教者でもあられた川本臥風先生が主宰されていた俳句の結社にも参加し、投句していた。ちょうど夏休みであったので、その結社の方がいる三次での吟行句会に参加させてもらっていた。そのとき以来、三次には一度も行っていないので、当時とはずいぶん変わっているだろうし、凌霄の花のあったお寺の名前も、泊まった宿の名前も今では、確かめることもできない。
三次は島根県に注ぐ江の川の流れる盆地で、鵜飼で有名な中国山地の小京都である。二〇歳代の経験することは大方がはじめてのことで、このときも生まれ育った瀬戸内から中国山地の街へ行くのは初めてであった。沿線の真夏の木々の緑の美しさに心を奪われ、わが郷土の高原の美しさを誇りに思いながら三次まで行った。
四国松山から来た人たちと、福山から福塩線で三次に着き、近くに住む同じ学生俳句会の友人(彼女は若いときにすでに故人となったが)と出会い、その日泊まる旅館にみんなで案内された。夕食は鮎ずくめの料理であり、蓼酢のすっぱさと混じる塩焼きの鮎の味が忘れられない宿であった。薬湯の入っているらしい風呂場を見て、細い階段をあがり広間に行った。そこに荷物を置いて、早速吟行に案内された。
まず、先はどの凌霄の花の咲くお寺に行った。涼風の抜けるお寺に通され、座敷から明るい三次の街を眺めた。青い山々に囲まれ、川が流れる盆地の風景に、文学的気分を味わった。それからお寺を下りて、公園らしいところへ道を辿った。夏草の茂る道端に、小さなキリシタン墓があった。そのいわれの説明を受けたと思うが、一つだけの道端の墓をあわれに思いながら、川に架かる橋を渡った。橋を渡ると薄く日光が差し込んで、ひぐらしが「カナカナカナカナ、カナカナカナカナ」と水の中を思わせるように鳴いている林に入った。この林が近道だとかで、三次人形という土人形の窯元に出た。色あざやかな天神様の人形が並んでいた。こんな三次の街の風景とともに私は凌霄の花に出会ったのである。
もう一つは、焼き物の里砥部町に百坪少しの敷地の家に往んでいたころ、庭には椿や樫、松や槙、百日紅などの庭木のほかに瑠璃柳や、白萩、白やまぶきなどをところ狭しと植えていた。ある日植木屋さんから、凌霄の花の苗をもらったが、わが家の庭は一つの雰囲気ができあがって、凌霄の花が似合いそうでなかったので、お隣にその苗を差し上げたら、苗は立派に育って玄関に見事に花を咲かせた。それをまたわが家のお向かいの方が欲しがって、その花の脇から育った苗を、お隣の方がお向かいの方に差し上げて、それがまた見事に育って、洋館風な家の玄関を飾ることになった。こうして、わが家では、向かいと隣の家の凌霄の花を、夏の間中、朝夕楽しんでいたのだ。その家も今では手放してマンション暮らしなので、懐かしい思い出になっている。
コメント
読後感
正子先生
のうぜん花の由来、佐藤春夫や画風先生のお話など、興味深く拝読しました。
凌霄花咲いて隣家の華やげる の信之先生の御句の背景もなるほどと具体的に納得できました。ありがとうございました。