★子が去りしことも静かや夏の歯朶 正子
○今日の俳句
若きらと歩く街かど氷菓食ぶ/黒谷光子
若い人たちと街を歩くのは少々疲れることもあるけれど、アイスクリームなど街角で食べる楽しさに気持ちが若返る。老若あい和して愉し。(高橋正子)
○今日の俳句
松生うる浜辺に立てば夏の霧/河野啓一
浜辺に生える松を夏の霧が幻想的に浮かばせて、夏の浜辺の涼しさが心地よい。(高橋正子)
○全国俳誌協会
6月25日の定期総会で、新設のIT事業部長に選出された。早速、IT事業部のブログを立ち上げ、6人のスタッフを花冠同人にお願いした。
▼全国俳誌協会IT事業部ブログ:
http://blog.goo.ne.jp/zhk2011
IT事業部の当座の仕事は、協会のホームページ作製となる。その骨格が出来上がった。全国規模の俳句協会は、いくつかあるが、それとは違った特徴を持たせた。俳誌相互の交流、会員相互の交流といったことで、俳誌の電子書籍作製、会員交流のツイッターなどである。
▼全国俳誌協会ウェブサイト:
http://internet-haiku.info/zenkokuhaishi/
○水無月(みなづき・旧暦6月・京都の和菓子)
昨日の七月七日は、新暦の七夕。朝から風がよく吹く。特に信之先生の部屋は簾越しに入る涼風でまるで避暑地。朝九時過ぎから、日吉本町二丁目あたりを写真を撮りながら信之先生と散策。朝顔を咲かせている家はないかと思うが、小学校の校庭にたった一つ咲いていた。金蔵寺の半夏生を見に行く。半夏生は、終わりかけている。花盛りのときは、なにやら恐ろしい。蓮の花はまだ。金蔵寺を出て駒林神社に行こうとして、途中、槿の垣根に出会う。「道のべの木槿は馬にくはれけり 芭蕉」を思い出だす。江戸時代なら、ここを馬が通りかかるのだろう。その道の突き当たりは、神社の崖下で、藪カンゾウが緑の中にひときわ目立っている。神社の境内に入るが。森閑として梔子の花だけが咲いている。お賽銭をあげる。水筒の冷茶を飲んで石段に座ってしばし休憩。石段から境内の端のお稲荷さんを眺めるが、狐もコンと応えそうにもない。
神社を出て二丁目の奥の方へ。のうぜんかずらが咲いている家があり、草原のどくだみを踏んで近寄って写真を撮る。どくだみの匂いが芬々と立つ。ところが、早速草に負けたらしく、腕がかゆい。空は曇っていて、風は良く吹く。何か作ろうとして竹を割っている老人がいるので、「今日はよく風が吹きますね。」と声をかけると、「そうだね、割合良く吹くね。」と。巻尺で道路幅を測っている初老の夫婦がいて、ちらっと見て会釈してくれる。若いお母さんが、自転車で自分の家に帰ってきたのか、「こんにちは。」という。今朝あった人は、みんな始めて出会う人だが、七夕という日のせいか、風がすずしいせいか、これまでと人の心が違っていると感じる。
荒れた畑に「はるしゃ菊」が群れ咲いて、それにヒメジョオンの白い花が混じり、なかなかいい景色だ。「はるしゃ菊」は「蛇の目草」とも言うが、コスモスのような黄色い花の中に、蛇の目傘のようなチョコレート色の模様が入っている。はるしゃ菊の荒れ畑を曲がると、お寺ののうぜんかずらが、花をたわわに咲かせている。花の下には、オシロイバナがたくさん蕾を付け、夕方が来るのを待っている。
今日は、これで打ち切り。家に向かう。十一時半ごろ家に着くが、やはり暑かった。信之先生用にそうめんを茹で、私は蕗の佃煮を作っていたのを出して、ご飯を食べる。食後は、冷茶とお菓子の「水無月」。「水無月」は、京都の老舗では六月三十日にしか売らないそうだが、今日の「水無月」は、コープに注文していたもの。白い外郎に小豆が載っている。三角形に包丁を入れて食べるが、三角形であるゆえに涼しさが湧く。
「水無月」は、ちょうど一年の半分に当たる六月三十日の「夏越祓(なごしのはらえ」に食されるお菓子。三角形に切られた白い外郎は、暑気を払う氷室の氷を表し、小豆には、魔よけの意味と、氷室の藁をイメージしたものということだ。。見た目といい、食感といい、涼しいお菓子だ。今年は、節電のため、家ではまだ一度もクーラーを使っていないが、なんの不便も感じない。「水無月」を食べて、少し昔の日本にもどったような気持ちになった。夜、外に出ると、田を吹き渡るような涼しい風が吹いている。七夕の空は、あいかわらず曇り。
コメント
御礼
正子先生
「松生うる浜辺に立てば夏の霧」をおとり上げくださり、幻想的とのご評を頂きまして大変うれしく存じます。倅一家に天橋立へ連れて行ってもらったときを想い出して作りました。
Unknown
★子が去りしことも静かや夏の歯朶 正子
帰省していた子どもたちが帰って静かな時が訪れます。淋しいような、ほっとしたような気持ちです。そうした雰囲気を、風に揺れるでもなく静かにそこにあるだけのような歯朶の葉に託された詠みが印象に残りました。