2月13日(木)

晴れ、風強く台風なみ
はがき二通短く書きて春浅し      正子
でこぽんを剥けばわが身を香がつつみ  正子
樹の翳にくれない固く沈丁花      正子
●「火神」(No.82・令和6年秋冬号)を恵送いただく。主宰の永田満徳氏の中村青史賞、文學の森大賞の受賞のお祝いと、好きな句二句を書きお礼の葉書きを出した。
好きな句  大阿蘇の雲動かざる虚子忌かな  満徳
      時計屋の振り子のならぶ新樹かな 満徳

●同級生のMさんからの贈り物に昨夜お礼の電話したが、今日お礼の葉書きを出した。今度俳句を送ってくれるというので、楽しみにしていると書いた。

●「俳壇」1月号と3月号の俳壇時評を改めて読む。1月号は浅川芳直氏、3月号は鴇田智哉氏が担当。現俳壇の問題となっていることが浮き彫りにされているのではないか。俳句技法の一つ「取り合わせ」の技法を指導する場合の問題点。取り合わせの場合もだが、「切れ字」、「季語」、「不即不離」の扱いは高度な技術なのに、初心者にこの方法から始めることを推奨している問題点が、現俳壇の問題点と重なっている。
●1月号の担当は浅川芳直氏。「今、求められている俳句?」はどういうものかという話。

第七十回角川俳句賞になった若杉朋哉の「熊ン蜂」が二物衝撃の作品がほとんどなく、
選考委員の仁平勝氏の評が
「二物衝撃ばかりが流行する現俳壇で貴重な一物仕立ての一連が出て来た。・・・もちろん取り合わせと言う芸もありますけど、一物仕立てのほうが奥が深い。」
それに対し、
対馬が「・・こういう句が今求められている俳句なのでしょうか。」仁平 「はい。今求められているんです。

(「俳句」2024年11月号)」の会話が取り上げられている。現俳壇で「二物衝撃が流行している」については、二物衝撃の句が「俳句」(2024年11月号)ではプロの俳人にはみられなかったので、疑問であるとしている。仁平勝氏が、二物衝撃を流行と感じた理由は、ジャーナリスティックな俳句の見せ方によるものだと私は思うのだが。

また「現代俳句時評」(「俳句」2024年9月号)で板倉ケンタが、俳句四季新人賞の候補になった山口遼也の句に見られた「取り合わせ」で「有効」を取りに行くような俳句、指弾し、切れを伴う取り合わせを「キモい」と攻撃した、とされる。これは、普段総合俳誌を読んでいて私も感じているところだ。

非難されたのは、(1)切れた直後の名詞(季語)の提示、(2)俳句的な記号としての上五の「季語+や」だとしている。
(1)の例とし
悉く全集にあり衣被/田中裕明
(2)の例とし
夏服や海は楽譜のやうに荒れ/鈴木総史
をあげこの形の句は「多くの素人」が作るが、映像や流れが不自然だったり、「や」が切れを示すための単なる記号になっている。(季語への詠嘆がない)

この理由に拘わらずこの手の句が罷り通るのは、
「季語を置けばその季語が映像として存在しますよ」と言う俳壇の約束があるからに過ぎない。そうした約束に依存する作句をすべきではないといのが板倉の主張。私が総合俳誌を読みながら感じるのだが、こういう理由が俳句を痩せさせて、面白く失くしているのでは思う。

これは私も常日頃強く感じているところだ。二物衝撃がこのように使われてはと思うばかりだ。それに代わるものとして、大須賀乙字の「二句一章」論の見直しを言いたい、としている。これによると、一物仕立て、二物衝撃など大まかなレッテルを貼るより、乙字の分析のほうが言葉の働きを考えるうえで有用だと思うが、どんなものだろうか。と提案している。

「二句一章論」についてはここでは長くなるので述べない。
3月号の鴇田氏の「俳句を教える話」は、俳句を教えるときの話であるが、それはとりもなおさず、俳句を作るときの話でもある。俳句の作り方には大まかに二つ方法がある。ひとつは「一物仕立て(いちもつじたて/いちぶつじたて)」、もう一つは「二物衝撃(にぶつしょうげき)」(取り合わせ)」である。
「一物仕立て」には次の例句が挙げられる。
★白牡丹といふといへども紅ほのか /高濱虚子 
(はくぼたんというといえどもこうほのか/たかはま・きょし)
「白牡丹」の季語を中心に置いて、白牡丹の本質へせまるように詠まれている。松尾芭蕉の高弟である向井去来は「発句は、只金(こがね)を打ちのベたる様に作すべし」と言っている。(現在の俳句は発句が俳句となったものである)。本質へ迫るのであるから、一般的には奥深い内容を表現するのにはよい方法とされる。

「二物衝撃」の句としては次の例句が挙げられる。
★菊の香や奈良には古き 仏たち/松尾芭蕉
季語としての「菊の香」、季語以外のものとして「奈良には古き仏たち」 
「菊の香」と「奈良には古き仏たち」と違うものを持ってきているが、二つは感覚的に近寄りすぎず、離れすぎすのバランスをもった関係である。この違うものがイメージするものから、さらに新しい世界が広がる面白みがある。

鴇田氏は自分が最初教わったのが一物仕立ての俳句だったことにも由来するだろうとしながら、初めは一物仕立てで俳句を教える(作る)ことを薦める。なぜなら、二物衝撃で作る場合には起きる心配(危険性)があるからである。
 
その心配とは何か。現在小学5年生の教科書に載っている俳句の作り方は、二物衝撃(取り合わせ)であるという。(これはすべて検証したわけではない。)
「季語+それに関係のない十二音のフレーズ」で作る。これが最も先鋭的であるとする。これは実際テレビの講師が何の疑いもなく話しているのを耳にする。このおおもとは藤田湘子著『20週俳句入門』の一節であると推測されている。実際、私もこの『20週俳句入門』を熱心に読んだと思われる花冠会員の句に接することがあって、指導に困った。私も会員がどんな本からの影響を受けているか知る必要から、買って読んだ。すべてではないが、この教え方、作り方にはやはり心配がある。

「先に季語を選び、それに関係のない十二音の言葉を付ける」
「先に十二音の言葉を考え、それに季語を選んで付ける」と言う二方法の伝授がある。いかにも簡単に俳句が作れそうに見えるが、この教え方が初心者に機能するか、ということを鴇田氏は心配ている。私も同様である。

「関係のないフレーズ」というのが難しい。どのフレーズが良いのか、良くないのかわからない。二物衝撃の場合は、二物は付かず離れず(不即不離)でなければならない。不即不離のバランス感覚は全く個人にゆだねられていて、非常に高等なことなのだ。初心者は二つの物を持ってきてくっ付けるだろう。くっつけるのではない。もともと一つとして在る物を切るのだ。それが切れ字の働きだ。この働きが無視され、理解されずに、切れ字が切るのではなく、繋ぐもの、接着剤になっているのが多くのアマチュアの句に見られる。これをどうしてくれるのだろう。一番のジレンマはここにある。鴇田氏のジレンマの私と同じと思える。


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