10月31日(木)

晴れ
リルケの詩からのインスピレーションによる二句
  「古い家で」から
緑青のドームわが眼に霧のなか  正子
  「小さい地区」から
切妻の屋根の切り取る秋深空   正子

●今日は、昨日作った餡を食べようとして、どら焼きを作った。皮の焦げ具合からいうと虎焼きといっていい。すぐ冷めるので、冷めたどら焼きをレンジで温めると餡がもっと美味しくなった。

きのうも今日も、コーヒーではなくお茶を飲んでいる。元希に買ったオランダ船とオランダ人の絵付けの湯呑を初めて使ってみた。小ぶりで、手によくなじんで、飲むとすっとお茶が喉に落ちる。この具合がいい。なかなかいい。それでお茶を何杯も飲んでいる。ちょっと値が張っていたかもしれないと、買ったときのことを思い出した。

●9月7日から10月19日まで考えてきた、リルケと俳句のことを整理し、まとめた。「リルケと俳句と私」と題をつけた。第一部「リルケと私」とし、この部分は清書できた。読みやすようにサブタイトルをつけた。自分の文章にサブタイトルをつけたのは初めてである。納得いくものになった。
第二部へ移るのには思考転換のエネルギーがいる。第二部は「リルケと俳句」。これが本題だが、1月号には第1部だけ載せようかとも考えている。ここでひと頑張りして完成させるか。延ばすと来年7月の半年先だ。

●「いずれにしても時代は乏しいーリルケの「神」」(田中謙司著/明治大学大学院紀要第24集1987)、「発見と探究の間でーリルケの講演『現代抒情詩』について」(田中謙司著/明治大学大学院紀要第25集1988)の二つをネットで見付けて、印刷し、読んだ。

二つの論文を読んで、私が知りたいのは、リルケの世界観とか、人間観とかではないのだろうと思った。それは私の関心ではない。リルケの感性、視点、見方、表現のあり方、あるいはどこまで内面を掘り下げられたか、に関心があるのだろう。自分でもよくわからないが。リルケが「格となる言葉だけで作った詩」と言っていることにも注目している。

●ヨーロッパでは『なんのための詩人か』という問いがよく問われる。これはヘルダーリンの詩句を引用してハイディガーが言及していることで、詩人の存在意義についての深い問いかけである。ヨーロッパでは、伝統的に、詩人には神と人間との仲介者としての役割がある。だから、詩人の悶絶するような苦悩の話をよく耳にする。そして、詩人の社会的な認知が高いも確かだ。日本で本当の意味で、詩人の社会的認知が高まればいいと思っている。社会的認知を、社会的人気と混同している日本の現状は憂慮される。ヨーロッパでは、文学や芸術に対して目が非常に厳しい。ローザンヌのバレエコンペティションでは一見モダンな振り付けに対して、「バーの踊り子のような真似をさせてはいけません」と手厳しかった。

コメント