曇り、夜雨
臭木咲く崖よりボール跳ね落ちる 正子
臭木の実名にも似合わず藍つぶら 正子
栃の葉の虫くいだらけ秋の暮 正子
●きのうは、激しい運動とか、何にもしないのに、心臓がおかしい感じがしたが、早く就寝することしか思いつかなかった。それで馬鹿みたいに早く寝たら、今朝はすっきり。何事もなかった。
夕方散歩に出て帰るときには汗をかいてしまった。寒暖差がありすぎる。
Essay
(十六)リルケと俳句について
リルケがハイカイに出会って以後に作ったフランス語の24の短い詩篇が俳句の影響を受けていることについて、「リルケの俳句世界」(柴田依子著)で詳しく述べられている。
日本の思想がヨーロッパの思想に深く影響をあたえており、単に日本趣味に終わっていないのである。そのことに注意したい。次に「リルケの俳句世界」を参考にしながら、その影響をかいつまんで述べる。
(一)
リルケは短い詩篇「薔薇(たち)」で、彼のテーマとしている「生と死の統一体」)を詠むことを忘れず、それを中心に据え、俳句の定義である「短い驚き」と「我々の心に眠っている何かの印象を目覚めさせてくれる」に応えて詠んでいる。四行ずつの二連(二つのかたまり)からできている。
「生と死の統一体」を少し詳しく述べると、リルケは、生と死を対立するものとしてではなく、ひとつの連続した世界と考えていて、生の中に死が含まれており、死もまた生の一部であるという視点をもっている。例えばリルケの詩では、花が咲いて枯れる過程が生と死の連続として描かれている。これは、日常の中にある変化や移ろい、そして死もすべて自然の一部であると考える俳句の精神に通じている。
詩篇I(薔薇)
(第1連)
おまえの爽やかさがこんなにも私たちを驚かせることがあるのは、
幸福な薔薇よ、
おまえ自身の内で、内部で、
花びらを花びらに重ねて、おまえが休んでいるから(柴田依子訳)
幸福な薔薇よ、
おまえ自身の内で、内部で、
花びらを花びらに重ねて、おまえが休んでいるから(柴田依子訳)
(Les Roses)
Si ta fraicheur parfois nous etonne tant.
heureuse rose,
c'est qu'en toi-meme, en dedans,
petale contre petale,tu te reposes.
heureuse rose,
c'est qu'en toi-meme, en dedans,
petale contre petale,tu te reposes.
この詩でわかりにくいのは、
「おまえ自身の内で、内部で、(toi-meme, en dedans,)」だが、これは、「薔薇自身のそのものの本質的な姿」、薔薇自身の内面の美しさをいうのであろう。そう考えるとこの詩は、「薔薇の花よ、おまえの爽やかさに、ときにそんなにも驚くのは、花びらを花びらに重ねて安らう薔薇自身のそのものの姿からなのだ。」と解釈できるのではないだろうか。「薔薇そのものの姿」「その存在の形象(姿)」の表現に「おまえ自身の内で、内部で、(toi-meme, en dedans,)」はいかにも私には難しい。第2連に繋がってわかるのだが、薔薇はリルケ自身の内面であり、内部とはリルケ自身の内部ととれるリルケ的表現なのだろう。「爽やかさ」は雰囲気ではなく、「具体的に」薔薇の花びらの重なりを詠むに至っている。「休んでいる」には薔薇の存在感と幸福感を表すのにふさわしく、詩人の感受性の深さが知れる言葉であろう。
これは私の思うところだが、俳句ならば、第1連をもって詠み終わり、第2連は詠まない。第1連でリルケの言う未完のままで終わり、第2連の内容を読み手に要求する。読み手の理解と把握によって俳句は完成するものだと考えている。ここで、俳句の詠み手は、読む者に第2連の内容が導きだせるよう、言葉を用意しておかなければいけない。
(第2連)
すっかり目覚めている全体、その中心は
眠っている、沈黙したその心の
数しれぬ愛のやさしさは、触れ合って
口の端まであふれている。
Ensemble tout eveille., dont le milieu
dort, pendant qu'innombrables, se touchent
les tendresses de ce coeur silencieux
qui aboutissent a l'extreme bouche.
「目覚めている全体」は「花、全体としては目覚めている」
「その中心は眠っている」は、「薔薇の中心は眠っている(ように見える)」
「数しれぬ愛のやさしさ」は「重なりあう花びらが触れ合うのが愛のやさしさ(と見る)」
「口の端まであふれている」は「薔薇の花びらが完全に開き、その美しさがあふれ、まるで口を開いているかのように咲き誇る姿の比喩。薔薇の花の広がりとその豊かさを強調している。」
(二)
また、リルケはクーシュー仏語訳の日本の俳句158句のうち36句に特に注目している。これにより、リルケの関心のありどころが分かる。
①花や月を詠んだ句。
「咲くからに見るからに花の散るからに 鬼貫」
「知る人にあはじあはじと花見かな 去来」
「中々にひとりあればぞ月を友 無村」
?死や無常をさりげなく詠んだ句。
「身にしむや亡き妻の櫛を閨に踏む 蕪村」
「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 芭蕉」
③一つの世界にある矛盾・対立。
「起きて見つ寝てみつ蚊帳の広さかな 伝千代女」
(※伝千代女は加賀千代女とは別人江戸中期の俳人)
④ウィットのある句。
「手をついて歌申しあぐる蛙かな 宗鑑」
「追剥を弟子に剃りけり秋の旅 蕪村」
(三)
日本語では、主語が省かれている文は自然であり、また、俳句は主語の「私」は省かれている。英語、ドイツ語、フランス語では普通主語は省かれないが、リルケの詩篇XIV「薔薇(Le Roses)」はほかの詩篇と違って、主語にあたる「私」(je)が省略されている(「リルケの俳句世界」)。これについての柴田氏の言葉を要約すれば、「私」を消し去り、花や月を「友」とする俳人の境地や言語表現に通じているということだ。リルケはフランス語では省略しない主語の「私」を省略し、つまり消し去り、俳人の境地や俳句表現に習ったということだ。そして、またこの詩篇XIVは蕪村の「散りてのち面影に立つぼたんかな」と似通った世界を詠んでいるという。蕪村の句にインスピレーションを得て詩が成ったのだ。
鬼貫の「咲くからに見るからに花の散るからに」には、「甘美で無限の広がり」を感じ取っている。この句の仏訳を通して事物が「眼に見えるもの」から、「眼に見えぬもの」へ変容しているとも言う。これを私は「目の前の具体的な物が、俳句に詠むことによって、精神世界のことになる」と解釈する。
クーシューの仏語訳句や注釈から多くを吸収したが、それに加えリルケ独自の芸術観をもったと言われる。三つが主なものとされる。
①「短い驚き」と呼ばれるが、それにもかかわらずそれに出会う者を長くひきとどめずみはおかない芸術。
?一篇の詩には、言葉や詩節の間のすべてに、現実的な空間が入っている。
③丸薬を作り出す術のように、ばらばらの要素が、出来事が起こす感動によって結びつけられる。(正子注:丸められる。)その感動はすっかり単純なイメージになる必要があるが、眼で見えるものは確かな手でつかまれ、熟した果実のように摘みとられる。しかし、それは少しの重みもなく、手の中におかれるやいなやそれは眼に見えないものを意味せざるを得ない。
③はわれわれが俳句を詠むときのこと、またできた俳句のことを思って見るとよいだろう。いろんなことから感動があり、単純なイメージが浮かび、俳句を作るが、できた俳句は、目の前の物ではなく、物の重みを失くして、精神世界の俳句となっている。
また、リルケは俳句のなかに、西洋の詩には存在しない彼が希求してきた新しい詩芸術の実現を見出していると言われる。リルケは俳句に出会う半年ほど前「言葉の格だけからなっている言語」を求めていたことやクーシューの書を介しての俳句体験が彼の最高傑作と言われる『ドゥイノの悲歌』完成へのインパクトを与えた可能性があると、H・マイヤーが論文で指摘しているということだ。リルケの俳句体験は、リルケが詩人としての使命を果たすのに影響を与え、また、晩年の詩境解明の鍵となるのではないかと、柴田氏は述べている。
このように見て来ると、リルケにとっての俳句は、もともと彼が希求していたことや、彼の世界観に合致したのではないかと思える。そうでないと、これほど深く詩作に吸収できたとは思えないからである。
次は俳句体験をしたリルケが最終的に到達した詩境『ドゥイノの哀歌』を読んでみたいと思っている。今第十哀歌まであるこの詩の第一哀歌を読んだところである。幸い信之先生の遺した本にリルケ作品集の原詩があるので翻訳に頼りながらも、共鳴するところがあれば幸いであろうと、読めることを楽しみにしている。
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