曇り
真夜の月流れる雲のつぎつぎと 正子
油彩のごと肩張る林檎仏前に 正子
秋なれば多めの茸グラタンに 正子
●昨日の十三夜の月は綺麗だった。もうすこし膨らんでいるイメージがあったが、細い感じがした。洋子さんの返信メールでは、松山は雲間から、栄太郎さんの俳句からは、京都では曇りらしかった。きのうは昼間すこし暑かったせいか、十三夜の月に、樋口一葉の『十三夜』を思い出すこともなかった。十三夜のころは、夜は虫が弱弱しく鳴いて、さびしい感じするのに、そんなこともなかった。
●鵯や四十雀の声がまた聞かれるようになった。鵯が朝からかまびすしい。暑い夏の間、山に行っていたのか。生協の配達で大洲の里芋が届いた。日曜日に芋炊きをすることに決め、ビニール袋から出して新聞紙に包んで保存。鮮度が良かったので安心。
Essay
(十五)リルケと俳句について
人物:①「リルケの俳句世界」の著者の柴田依子氏は、フランス語に基軸を置いた研究者と思われる。
?クーシューについて。フランスの俊秀クーシューが24歳という若さで来日し、日本の文化に接したことは、日本文化にとって幸運なことだったと思われる。
以下が『俳句のジャポニスム』(柴田依子著/角川俳句選書/絶版)の紹介記事からの俳句に該当するクーシューに関する文である。
1903(明治36)年、フランスの俊秀クーシューは24歳で来日し、約9か月間にわたって、みずみずしい感性をもって異質な文化と社会に接している。
クーシューは、まず14首の和歌をフランス語に訳し、つづいて、宗鑑・鬼貫・芭蕉・蕪村など158句の俳句の翻訳と解説をした。これほど多数の俳句がヨーロッパに紹介されたのは初めてで、これに刺激されてリルケも三行短詩を試みるなど、文化交流の上で画期的な役割を果たした。なお、1912年に日本や中国を再訪した。
クーシューは、まず14首の和歌をフランス語に訳し、つづいて、宗鑑・鬼貫・芭蕉・蕪村など158句の俳句の翻訳と解説をした。これほど多数の俳句がヨーロッパに紹介されたのは初めてで、これに刺激されてリルケも三行短詩を試みるなど、文化交流の上で画期的な役割を果たした。なお、1912年に日本や中国を再訪した。
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