2月26日(月)

山に咲く椿の赤のいきいきと   正子
いきいきと風に咲きたる藪椿   正子
わが暮らし春の炬燵を真ん中に  正子
●普通に起きたつもりだったが、3度眠り直したようで、時計は11時半になっていた。そうだ、郵便が来る時間だと思い、郵便受けをみると、はがきが届いていた。いつ出された葉書なんだろうと、消印を確かめた。ああそうかと思いながら、仏前に供えた。
●最近、手書きの手紙がよく届く。これらは私信。男の人も女の人も、きれいな便箋や封筒、はがきを使って、切手までも季節の趣あるもの。一方ならぬ心のこめように、手紙文化の華やかさを思う。この手紙への返事は、手書きとなるが、その筆記用具。黒の水性ボールペンで書いているが、送っていただいた方の礼にかなっていないのではと思い始めて、万年筆を買おうかと思うようになった。安いのは、書き味が悪いだろうし、高いのは、買えないし。どうしようと、本屋や文具店を見て回った。とりあえず、色がグロッシャーブルーの水性ボールペンを一本買った。220円。

2月25日(日)

咲き初めし辛夷は雨に冷たからむ   正子
花ミモザ花粉を今にこぼしそう    正子
花ミモザ鰺の開きを焼き焦がす    正子
●昨日と打って変わって冷たい雨の一日。
●印刷機の不全で、印刷できなくなっていたのを、腰を据えて直す。物理的な故障ではない。眺めていても、どうしようもない。オンラインの故障を直すためのアドバイスに従って作業をし、一応使えるようになったが、完璧でもなさそうだ。
●『現代俳句一日一句鑑賞』(髙橋正子著/水煙ネット発行)が、紀伊国屋書店のネットショップにあったので驚いた。実際この本は、20年近く前の本で手元に2冊あるのみ。売ろうにも売ることができないが、著名俳人の句と会員の句を同等に入れ混ぜて365日毎日鑑賞したもの。そのことで、みんなはしゃいでいたことを思い出す。印刷代軽減のために、信之先生と手作りしたもので、売る目的はなく、会員に配布するため。ISBNもついていない。
これとは別だが、20年前の私の句集『花冠』から、角川が歳時記に数句を拾って載せると言う。掲載の許諾を求めて連絡があった。20年の間、正子の俳句と著書はどこをさまよっていたのだろう。この世の話と思えない。
●調べ物をしていて、ゲーテに続くドイツの抒情詩人・メーリケの「祝婚歌」(森孝明訳)と吉野弘の「祝婚歌」を読むことになった。ロマン主義で人間生きて生けるのかとさえ思わざるを得ない気分になった。以前、「私のようなロマン主義者は、理想にたどり着くか、そうならない場合は、死ぬしかない。」と言われた(半ば威しのようでもあるが)ようなことを思い出した。これが、また本当らしくて、実はよくわからない。正子俳句がロマン主義かどうか、わからないが、ロマン主義はすでに通り越してきた時代のものだし。しかし結局、ロマン主義というのは、通奏低音のように人間の底に潜んでいるものなのではないだろうか、とも思う。

2月24日(土)

晴れ、のち曇り
仕入れて店にあふれる花ミモザ 正子
梅散りし流れや底に映る影   正子
散る梅を真横に流す谷の風   正子
●句美子と大倉山梅園へ行く。きのう、今日と、梅祭り。いつものように、日吉駅のプラットフォームで待ち合わせをするが、電車が遅れ、すこし、ちぐはぐして、日吉ではなく、二駅先の大倉山で落ち合った。昨日雨だったので、これまで見たことのない大勢の人出。大倉山の坂は、人で埋め尽くされている。
途中冠雪の富士山の頭だけが見えた。富士山は、真っ白。梅園の周囲を埋め尽くすほどの屋台。暖冬で梅は盛りをすぎていたが、8割ぐらいは大丈夫。風に散る花びらや、小流れに散りこむ花びらが水底に影を映し、これはこれで風情がある。少し上の道を人が歩く。上からの梅園の眺めも、絵巻物のようだ。句美子がそういう。句美子は、初めて大倉山梅園に来たと言う。そうだったか、と思う。
地元商店街や地元の筝曲や日舞の会、お茶の会などが中心となって梅祭りを運営している。市長の挨拶もあり、横浜市あげての梅祭り。句美子が梅大福を友宏さんのお土産に買い、お茶券を買ってくれたので、お茶席に座る。高校生のお点前。お菓子は梅の焼き印を押した上用。
設営された舞台で、筝曲と尺八の演奏を聞いた。若い女性がきれいな着物をきて、ピン、シャン、シャラリと余興で演奏するのかと思ったが、ベテラン女性や男性による本格的演奏。はじめの2曲は聞き逃したが、「鷹」「篝火」「Kのための斗為巾」を聞く。「斗為巾(といきん)」は、十三弦ある琴の糸の11,12,13番目の糸にたいする名称だそうだ。「鷹」は、「春の海」風の感じで、大空を舞う鷹の様子。「篝火」は、古楽器によるバロックのような曲だった。人類の文明の始まりは「火」からとのメッセージを込めているとのこと。「Kのための・・」は、誕生した自分の娘のための曲。それを聞いて梅園を後にした。
日吉に帰り、東急のカフェで昼食。昼食後、信之先生の月命日のお菓子とお花を買って句美子と分かれ、帰宅。今日の仏花はミモザ。なぜなら、花屋は店が埋まるほどミモザを売っていたから。
●確定申告書を郵送。お役所は少しでも間違っていれば突き返すが、不備のないようには市民には無理。不備があれば、なおしてください。これに時間をとられたくない。
●ブルッフと、ベートーベンの「春」をパールマンとアシュケナージュで(1974年)聞く。いままでで、一番いいかも。

2月23日(金)

●冷え込んでいる。
●最近は、人に会うチャンスをわざわざは作らない。大方はひとりで過ごすことになる。本を読み、音楽を聴いて、なんらかを思う。その思い方が、素養がないものだから、自分勝手な思い方になっているのに気づく。誰に指摘されたり、言われたわけでもないが、おそらく、私のは、勝手な本の読み方、勝手な音楽の聴き方なのだと。おおよそ、世の中、本の読み方も音楽の聴き方も、絵の見方まで、すでに決まっている。おそらく学問のせいだろう。ちょっと寂しいことだと思う。

2月22日(木)

小雨
老いし手に広げて五色雛あられ  正子
友と遭い友と二人が花菜買う   正子
向こうから来る人ばかり春しぐれ 正子
●『ヒューマニズム考ーー人間であること』(渡辺一夫/講談社文芸文庫1650円)が届いたので、午後丸善に取りに行く。「ヒューマニズム」はずっと、よくわからないでいた。大学者のこの本を読んでみようと思ったのは、ひらがなが多い文章がはじめにあったから。わかりにくいことを、これほど易しそうに書いてくれているのは、それこそ、渡辺一夫先生のヒューマニズム?の精神からではと思った。今日半分ほど読んだが、ヒューマニズムは思想ではなく、人間の心根というものらしい。
●「フーゴ―・ヴォルフの思い出」を読んだ。先入観なく読んだ個人的な感じでは、音に人並はずれて過敏で(神経質とは言いたくないが)、誇り高き男に思える。メーリケの詩による歌曲を通してのヴォルフは、日本での評判とは、違うような気がした。歌手と言えども歌曲はまず詩がわかっていないと、いけないんじゃないかと思った。「隠棲」を老人臭いと言ったり(半ばあっているかもしれない)。
メーリケの詩に作曲した「隠棲」、「春に」、「散歩」など聞いた。メーリケではないが「夏の子守り歌」に安らいだ。
久々に『メーリケ詩集』(森孝明訳/三修社1993年刊)を開いた。メーリケ詩集の訳注に、「隠棲」はヴォルフやR・フランツによって曲をつけられたとある。私は今、この「隠棲」の詩も意味がよくわかる。
「隠棲」メーリケ詩集・森孝明訳 第1節より
放っておいてくれ、ああ世界よ!
愛の贈り物で誘わずに
この歓喜と苦痛
それだけを抱かせてくれ!

2月21日(水)

曇り、小雨
夫に供う雛のあられの色淡く    正子
むらさきをたっぷり鉢のすみれ咲く 正子
山茱萸に一日かけて雨がふる    正子
●「世界は死からはじまる」
     マーゴ・ヤンソン
彼はしずかに落ち着いた
動かなくなってから、
言葉が動き出した
動き回る言葉を
抑えつけていなくてよくなった
とも言える

なにも知らない人が、

当を得た言葉で真実を
言い当てはじめた
●線香が折れたので、細かく削って粉にし、花の形に切った和紙に糊で二枚合わせに貼る。椿の匂いする小さい栞になった。本に挟んだとき、はらりと落ちるとき、どんな感じか。
●フルーツケーキが届いた。コーヒーと。雨の日ながら、いいことがある。
●終日小雨。ヴァイオリンソナタ「雨の歌」を聞く。シェリングとルビンシュタイン。夜はフルトベングラーでマーラー「巨人」と、ヴォルフの歌曲「夏の子守り歌」など。

2月20日(火)

晴れ
山茱萸のつぼみの澄みし黄が空へ 正子
さきがけの辛夷の花のそよぎたり 正子
学校の梅満開にバス通り     正子
●雨の予報がはずれ、晴れ。2月と言うのに、電車はクーラーが効いて、子供たちは半袖Tシャツ。
●俳壇から4月号の初校。文字化けして読めないので、校正は編集者にお任せします、と電話を入れる。夜、ふっと思いついて、俳壇からのメールをスマホに転送してみたら、成功、読めた。ブラウザーの関係かな。
●病院のハシゴ。午前ハート内科、午後整形外科。2医院とも血液検査。整形外科の先生は、たいしたことないがビタミンDは飲むようにと。たいしたことないは、今でこそ言えること。3年前は、階段を上ろうにも、足が上がらなくなって、近所にもいけなかった。リハビリに通ったし、それなりに努力した。
●晴美さんと偶然バス停で会う。一緒にバスで日吉駅まで。今日彼女から、きれいな、何枚も書いた手紙をもらったばかり。返事の葉書を出す。
●バイオリンソナタ「春」を聞くが、4楽章まで弾いている動画がめったにない。同じ動画ばかり、何度も聞いていた。あったとしても、バイオリンの音がピアノに消されたりして。今日は見つかった。ギルド・クレーメルとアルゲリッチの「春」。アルゲリッチは、バイオリンの音が聞こえるように、伴奏というのではなくて。クレーメルは繊細でつややか。違う音楽に聞こえる。

2月19日(月)雨水 

夜中雨、朝曇り、のち晴れ、雨
雨水とは夜中の雨にはじまりぬ 正子
雛菓子を売る店すこし見て帰る 正子
麦の穂と桜と合わせ早々売る  正子
●今日は雨水。朝外を見ると濡れている。雨のあと。昨日は菜の花に鰹節をかけたおかず。デコポンとか、春キャベツとか、若芽とかが美味しくなる。
●クリムト展2019年について、東京都美術館の学芸員の解説を聞く。
そのあと、ネットで調べる。以下はネットの情報。
クリムトが日本美術から受けた影響は、遊び心のある官能的なエネルギー、世紀末ヨーロッパの郷愁と進歩、そして彼自身の個人的な悲しみと死への恐怖などさまざまなものを表現するのに役立った。
クリムトは浮世絵を研究して学ぶことで、独自の数多くの浮世を描くことができた。若冲の版画「雪竹錦鶏図」→斜めの構図→「アダムとイヴ」、雀と水仙の画→牧歌的風景での純粋さを示す白→白いドレスの少女、 春信の思い人たちの身体を絡み合わせる衣服の布や柄の使い方や人物のポーズ(首を90度にかしげる)→『接吻』(1909)=浮世絵の特徴とクリムト自身の特徴であるヨーロッパの世紀末様式の融合した作品。
●『アッター湖』の画面いっぱい広がる点描のようなさざ波と、水の色。黒い木の影。
『接吻』は、よく見ると小さな白い花と青い花が髪にある。白い花が純粋さを、明るい青い花が若さを表しているような。緑の葉のようなのは蔦、男性の髪にも。女性の表情を表す言葉が思いつかない。脚が衣服から出ていて女性はひざまずいている。ちょっと崖から落ちそう。文学であらわせないものかもしれない。
『ピアノを弾くシューベルト』ウィーンに大作曲家が集まったといえど、ウィーン生まれはシューベルトだけだったのではないかと思うが。ピアノを弾くシューベルトの後ろで歌う少女たち。なんといえばいい雰囲気なんだろう。
●渡辺一夫の『ヒューマニズム考 人間であること』(講談社)を丸善に頼む。この本はひらかなの多い文体で書かれている。「平明な文」からわかることは、なんだろうか、と。

2月18日(日)

晴れのち曇り
なにもない山が椿の咲く山に  正子
枯草のいのち薄れて下萌える  正子
水いっぱいの春の苺ならば買い 正子
●鳥の北帰行の俳句が投句され始める。
●小西昭夫さんから「100年俳句計画」「雫」秋号が送られてくる。「100年計画」には、小西昭夫さんによる髙橋句美子の
雪山を見渡してから滑りだす  髙橋句美子
を鑑賞いただく。
「雫」には、髙橋信之の三句を近藤ひとみさんに鑑賞いただく。
炎天下踏切の棒下りてくる  髙橋信之
天ぷらがからりと五月の音立てる  〃
雪がふる山のかたちに雪がふる   〃
●鑑賞文は下記アドレスに掲載しています。クリックしてお読みください。ご感想があれば、そこのコメント欄にお書きください。
発行所ブログ:https://blog.goo.ne.jp/kakan100
●句美子が来て、風呂の電気のカバーをつけてくれた。カバーは、ガラスでできている。テーブルに置いていたので、花瓶と思ったらしい。自分が来なかったら、どうしようと思っていたのか、と言う。来ないことは、考えていなかった。
●小澤征爾指揮ウィーンフィルのサントリーホールでの来日公演(2016年)のシューベルトの「未完成」を聞いた。
映画「未完成交響楽」で、シューベルトが「白鳥の歌」の歌詞の読み方を少女に教える場面がある。少女ははじめ散文を読むように読んだ。シューベルトは言った。「普通はそう読みます。でも、歌は強弱をつけて読ます。こんなふうに」。少女は強弱をつけて読み始めた。次第に少女は「白鳥の歌」を歌いだしたのだった。私も学生のとき、そういう風に信之先生から教えてもらったことを思い出した。ドイツ語の俳句はこう強弱のリズムをつけて読むのだと。耳に残っている信之先生のドイツ語が、シューベルト役のドイツ語の音声とあまりに似ていたので、不思議な気持ちになった。シューベルトも信之先生も、この世にいないのに、あきらかに強弱のついたドイツ語が聞こえる。

2月17日(土)

曇り
信楽に草もち桜もちをふたつ      正子
ムスカリの鉢より垂れる水光り    正子
汚れ出てチューリップの芽たくましき 正子
●きのう、浮堂さんからお電話をいただくが、電話が遠くて返事がちぐはぐしたかも。それで今日お葉書をだす。
●確定申告の書類作成中。私のは、「あなたの医療費のお知らせ」でまとめて連合会から書類が来たが、信之先生のは来ない。在宅介護で、いろんな医療をうけたので、いろんなケースの医療費がある。調べて整理しているうちに、いろいろが思い出された。