10月27日(日)

曇り、夕方雨

小鳥来る二羽より三羽に増えて鳴き  正子

●衆議院総選挙。
●いつも散歩で通る保育園のフェンスに「めだか池図鑑」というA4ぐらいの写真が貼ってあった。フェンスの内側にビオトープがあって、めずらしい水草やめだかがいる。それを通りすがりに見て楽しんでいるのだが、初めて見る水草もある。貼り付けられて図鑑によると、水草は、とちかがみ、あさざ、おもだか、ふさも、がま、いぐさなど。今は花の大きい琉球朝顔がフェンスにからんで咲いている。

夏だったか、フェンスの内側で作業している保母さんに、水草の名前を聞いたことがあった。そのとき、「好きな人がいるので、名前を貼り付けるようにしてもらいましょう。」と言ってくれた。こんな風になるとは思わなかったが、今朝、思いがけず、水草の名前がわかった。

●今日は巻きずしを作る約束をしていたので、作って句美子のところへ持った行った。ごぼう入りの田舎巻きずしが食べたいので、作ってみたが、美味しいのは海苔だけの感じだった。自分で作ると味がよくわからなくなる。句美子はおいしいよ、と言ってくれたが。

10月26日(土)

曇り
ひよどりの小鳥来たるをよろこべり   正子
青煙をもうもう立たせ秋刀魚祭     正子
欅落葉踏むともなしに踏み歩く     正子

●図書館へ。図書館は区庁舎のなかにあるのだが、入口をはみ出て長蛇の列。期日前投票をする人たちとわかった。もう一つ長蛇の列があった。駅を出てすぐ左手。青い煙がもうもうと立って「さんま祭」の幟が立っている。山安」の名前も見える。おいしい干物で知られる山安の店が駅前にあるので、その店が秋刀魚を焼いてみんなに食べさせているようだ。

●本は7冊借りた。『トルストイ』(八島雅彦著/清水書院)と『ロシア文学への扉』(金田一真澄編著/慶應義塾大学出版会)、『葛飾北斎伝』(飯島虚心著/岩波文庫)、他にリルケに関する本とパッフィンブック1冊。全部読むわけではないが、少し見るところがあるから7冊になった。北斎伝は古文で、注釈付き。「画工北斎は畸人なり。年九十にして居を移すこと九十三所」の知られた文からはじまっている。

10月25日(金)

曇り

紫蘇の実を夕寒きまで育て    正子
蓮根に辛子が辛く効く夕餉    正子
食卓の昼のお暗さ柿照りぬ    正子

●整形外科へ。整形外科へ行くようになったのは、4年ほど前のこと。急に右足が上がらなくなって、階段が上れなくなった。これはなんだと思い整形外科へいくと、股関節が固くなっているからのこと。すぐ近くまでも歩けなくなっていた。理学療法士のお陰と、自分でも坂道を歩いたり、ストレッチを工夫して9割ぐらいは直っている感じだ。今日、道で出会った知人は、私の顔を見るとだしぬけに、「歩けることは大事だよ。」「歩けるからありがたいのよ。」と言う。「歩くのが不自由な人が結構多いのよ。」とも。

10月24日(木)

快晴、午後曇り
墓地よりの眺めの中に薄紅葉    正子
薄もみじ鶏鳴墓地にまでとどき   正子
墓に汲む秋水蛇口よりあふれ    正子

●墓参。9時半に出かけ、帰宅は1時過ぎ。花筒を洗ったり、線香を点けたりしていると、雄鶏の鳴き声が聞こえた。墓地の下の方の家で飼っているのだろう。いつも聞こえてくる。快晴の良い天気だったが、少し暑い。信之先生のお墓の反対側の列に台湾椿の白い花が咲いている。思ってもみなかった花だが、椿とそっくりで、おなじような花の落ちかた。今日は、電車もバスも接続は良かったが往復3時間半かかった。いつもこのくらいになる。

●電車の移動中『神さまの話』(リルケ著・谷友幸訳)の「正義のうた」を読んだ。『神さまの話』はリルケの2か月に渡るロシアへの旅のあと、7日間で13話を一気に書いたという。これらの話は「神さま」と言うテーマで貫かれ、子ども向けの話を足の萎えた大人のエヴァルトにするスタイルをとっている。

六話目の「正義のうた」は充実している。25歳のころのリルケの死に対する考えが知れる。「死人とは、おそらく、生について沈黙思考するために、身を引いてしまったひとたちだと思います。」などが見られる。また、キエフについてもおもしろい。「聖都の名をもって聞こえ、四百を算する教会の円頂をうちに擁して、ロシアが第一の誇りを常に謳歌していた都でしたが、今はもう、ひとり物思いに沈むほかはなく、幾たびか火災に見舞われて、つぎつぎに烏有に帰してゆきました。」など書いてある。あくまでも話のなかでのことだが。キエフ(キーウ)が戦火に晒される前兆を感じる。

10月23日(水)霜降

曇り、雨降ったり、止んだり

みずいろを草に点じて蜆蝶     正子
(蜆蝶の季語は歳時記により春又は秋)
灯火親し夫亡きあとの夜々の灯は  正子

●明日、信之先生の月命日なので、墓参りの準備。お花とお菓子、果物を揃える。あすは昼までに帰れるように出かける。少し暑くなりそうだが雨は降らないようだ。

●今日は生協の配達日だったが、注文を忘れて、届いたのは卵だけだった。今日は霜降なのに暑い。またまた赤旗が自民党の非公認候補者にも2000万円を渡したとスクープ。選挙、何やってんねん!
●横浜赤レンガ倉庫のクリスマスマーケットが今日から始まるのだと1か月勘違いしていた。始まるのは来月22日夕方から。どんなものかと、You TubeやVlogにあがっていた去年のマーケットの様子を見た。1時間ぐらい並ぶようだが、若い人ばかり。60店舗の出店がある。ドイツの食べ物やクリスマス雑貨が売られて、手ごろな値段。入場料は500円だが、クーポンがあれば300円。手首に巻くバンドをくれるようだ。船できたり、ロープウェイ出来たりしているが、電車なら、みなとみらい線の馬車道で降りて6分。
やっぱり、赤レンガ倉庫は止めにして、センター北のドイツ学園の人たちが開いてくれるクリスマスマーケットだけにしようと思う。今年は12月7日(土)8日(日)になっている。例年、センター北駅で降りるとマーケットが賑わって、ホットワインなども飲ませてくれる。ここの方が小さいけれど、本場の感じ。たぶん望郷の思い出開いているクリスマスマーケットなのだろう。

10月22日(火)

曇り
かわせみの青き背を向け秋の暮  正子
野菊咲く小川の音の高かりき   正子
コスモスと穂草が絡む山の辺よ  正子
小綬鶏の子連れらしくて秋の沢   正子
鴨来るはやも浮き寝の三羽なり   正子

●午後、四季の森公園へ行った。弁当をもって出かけるつもりで卵焼きも焼いたが、お昼をすぎたので、家で食べてから出かけた。

一番の期待は、鴨が来ているかどうかだった。初め杭かどうかよくわからなかったが、はす池に三羽いる。これが、眠ったように水に浮いて、ほんの少し動いているだけなので、遠目には杭に思える。入口の自販機で買ったセブンティーンアイスを食べながら鴨を見ていた。座っている大きな御影石のベンチが、日に温もってほんのりあたたかい。

今日は四季の森には目立ったものはないだろう。そう思いながら、はす池の木道を奥へと歩いた。途中から小川の流れに沿うと、水が落ちる音が快い。チカラシバさえも水際ですずやかな印象だ。穂草のなかに終わりかけのコスモスがまだ咲いており、シロヨメナが一番きれいに咲いている。広場の大きなコナラの枝がほとんど切り落とされている。林の中に、新しいナラの切株があちこちにある。途中出会った老人によると、楢枯れで伐採されたのだという。ここ数年は楢枯れが広がっているそうだ。葦原を一周すると、ツリフネソウ、、キツリフネソウ、アキノウナギツカミ、ミゾハギがある。葦の中に鳥がいるような音がするのだが、出てこない。径の縁に水引草があちこちにあって、赤い色が見事に濃い。

葦原を一周し終わるところで、小綬鶏を見た。沢の草や笹に入り込んで、なかなか姿を見せなかった。草は揺れている。すると一羽が頭と胴を見せ、もう一羽が首を伸ばして顔を出した。オレンジロがくっきりとし、たしかに小綬鶏だった。鳴きはしない。三、四羽いるらしい。小綬鶏のいる少し上にがまずみの実が真っ赤に熟れている。

広場の入口に、ユウガギクガたくさん咲いていた。ユウガギクは柚子の香りがするので「柚香菊」と書くが、嗅いでみても、柚子の香りはない。池には翡翠が一羽、青い背をこちらに向けて枝に止まっていつもよりどっしりしている。カメラマンたちは引き払ってだれもいなかった。池の縁をのぞくとトリカブトらしい青紫の花が目に入った。林には鵯がよく鳴き、森の入口には四十雀の地鳴きが聞こえた。森に居れば居るほど、いろんなものが見えてくる。帰るまぎわ、里山花壇でウワミズザクラを見付けた。これは桜とは似ても似つかぬ白い房状の花。暮れるといけないので、3時半ごろ公園を出た。

10月21日(月)

曇り
晴ればれと秋雲焼けて朝の空   正子
菊切って手に束ねればよく香る  正子
白菊も黄菊も仏華として香る   正子

●今日は一日気温が低い。椅子にすわっていると曇りのうえ、冷えびえとしているので、朝から眠くなる。循環器の定期健診に行った。「やっと落ち着きましたね。」、つまりいろんな検査の結果が普通になったことを言われた。わが尼寺的生活も板についてきたせいかもしれない。
病院の待ち時間に『神さまの話』二話を読んだ。時間をつぶさなくてはいけないからだ。病院にはテレビはなく、壁の液晶画面には、お知らせが次々映り、真空管みたいなところから高音質の音楽が流れているだけ。花は箱に詰められたインテリアの花。スマホを見るか、本を読むか、何もしないかなのだ。あるいは、抜け出して近くの書店で立ち読みをするか、スターバックスで一杯だけコーヒーを飲むかとなる。

●「リルケと俳句について」書き始めたのが9月7日。書かなかった日のあるが、一応、ケリがついたのが10月19日。この間の文章を印刷したら、原稿用紙50枚ほどになった。整理したらもっと短くなるか、説明の補足が必要になって長くなるかだが、一つの章ぐらいになりそうだ。

10月20日(日)

曇り、ときどき晴れ

●夕方句美子たちの家へ。目黒線に乗るのだが、今日は濃紺の車両がきた。どこの鉄道会社の車両だろうと思いつつ句美子に聞くと、相鉄線の車両だと言う。去年から入線しているのだから、見慣れないというのもおかしいが、たしかに駅の雰囲気が違っている。走行距離の長い電車が入ると、学生街の小さい駅も、旅心が湧くようになった。12年前、東京メトロ副都心線が走るようになったときは、それほどでもなかった。去年は、西へは新横浜線が新しくでき、相鉄線が乗り入れ、ずいぶんにぎやかになった。東も埼玉まで繋がっている。

●10月も20日になったので、そろそろ花冠の1月号(No.372)の原稿を整理し。まとめなくてはいけない。まだまだと思っていたが、すぐに年末が来そうな感じになった。印刷所が年末休暇に入るので、油断できない。
●「俳壇」11月号に「歳時記の世界」という特集がある。橋本直氏によると、大歳時記の起源は昭和八年に改造社から出た「俳諧歳時記」であり、「大歳時記」と名乗らなかったが、収録季語一万五千という。それまでの歳時記とは比べ物にならないとのこと。角川から『新版 角川俳句大歳時記』が2022年から刊行されている。15年ぶりの改訂とのこと。ここ15年間の結社誌や句集などからこれまでの『角川俳句大歳時記』の句に追加されるいう。これに信之先生と、正子の句を載せるが、作者にまちがいないかの確認の書面がとどいた。掲載される句は、15年間に発表された句となっているが、私の場合は20年前の句集の句であるから、その説明には首をかしげる。新しい季語でもない。
この新版の大歳時記には1万八千の季語が掲載されると言う。これほどの季語が必要であるのかと思わないでもない。まだ、自分の句が載っている歳時記を確認していない。

10月19日(土)

小雨ときどき曇り
新米を朝の仏のために炊く     正子
新米を小さく盛って仏前に     正子
秋の夜黒糖かりんとカリッと噛む  正子
●新幹線の時刻表と運賃を調べる。しばらく新幹線に乗らなかった間に、運賃が安くなったのか、ほどんど変わらないのかという印象だ。それとも単に往復運賃を片道運賃として記憶していたのかもしれないが。もう、そのことはわからないが。601㎞からは往復で買えば、片道ずつ1割引きになる。これにしよう。早朝出発か、8時代出発かのどちらにするかが残った。
(十七)リルケと俳句について
「リルケと俳句について」の考察が一段落した、と思ったが、リルケについて思い違いがないか、不安がよぎった。手元にある『世紀末ウィーンの文化評論集』(ヘルマン・バール著/西村雅樹編訳)に何か載っているかも知れないと読み返したが、リルケの名前は出て来なかった。
リルケはオーストリア人となっているが、彼は現代の吟遊詩人といわれるほど一所不在の生活をしていたから、言及されなかったのか。それとも個人的すぎたのか。リルケがハイカイに出会ったのが1920年なので、彼が、小さすぎる詩ハイカイやフランス語の短い詩を作っていたことが知られていなかったのか。
ジャポニスムの影響を受けた文学者として、「日本展」の章でドイツの詩人ゲオルゲ派(ホーフマンスタールなど)やクヌート・ハムスン、ペーター・アルテンベルクに言及があった。ハムスンもアルテンベルクも私は知らないので何とも言えないのだが。ゲオルゲは1868年~1933年、リルケは1875年から1926年。ヘルマン・バール は1863年~1934年。
●リルケとは関係ない話だが、この評論集の「日本展」で、バールは日本文化について分析し、浮世絵など日本文化に対する深い理解を示し、西洋人にとって新しい視点を提供していている。日本人の私も、新しく日本文化の本質を知らされるところだ。
脱俗の人間の一人として蕪村のエピソードもある。日本人から見ると落語のネタのような話で、風流や脱俗をいうのに、無風流な話である。それもそのはず。カタログの説明からの引用というのだらか無理もないのだが、異文化の理解というのは本当にむずかしい。
「蕪村はある晩横になって寝ていたが、またすぐに目を覚まし、その晩、月が照っているのを思い出した。そのとき、すぐにも月の光を見たいという気持ちにかりかてられたので、蕪村はろうそくに火を灯し。その火で住まいの屋根に穴をあけ、この穴から空を眺めた。その結果、街の半分が炎に包まれ焼け失せてしまった。」

バールは日本文化や芸術を讃えながらも、すぐに、明治時代の日本が早も西洋文化に汚染され、日本の良いものを失くしかけていると指摘しているのは、鋭い。彼はドイツ文学とは違うオーストリア文学を強調している。

10月18日(金)

曇り、夜雨
臭木咲く崖よりボール跳ね落ちる  正子
臭木の実名にも似合わず藍つぶら  正子
栃の葉の虫くいだらけ秋の暮    正子
きのうは、激しい運動とか、何にもしないのに、心臓がおかしい感じがしたが、早く就寝することしか思いつかなかった。それで馬鹿みたいに早く寝たら、今朝はすっきり。何事もなかった。
夕方散歩に出て帰るときには汗をかいてしまった。寒暖差がありすぎる。
Essay
(十六)リルケと俳句について
リルケがハイカイに出会って以後に作ったフランス語の24の短い詩篇が俳句の影響を受けていることについて、「リルケの俳句世界」(柴田依子著)で詳しく述べられている。
日本の思想がヨーロッパの思想に深く影響をあたえており、単に日本趣味に終わっていないのである。そのことに注意したい。次に「リルケの俳句世界」を参考にしながら、その影響をかいつまんで述べる。
(一)
リルケは短い詩篇「薔薇(たち)」で、彼のテーマとしている「生と死の統一体」)を詠むことを忘れず、それを中心に据え、俳句の定義である「短い驚き」と「我々の心に眠っている何かの印象を目覚めさせてくれる」に応えて詠んでいる。四行ずつの二連(二つのかたまり)からできている。

「生と死の統一体」を少し詳しく述べると、リルケは、生と死を対立するものとしてではなく、ひとつの連続した世界と考えていて、生の中に死が含まれており、死もまた生の一部であるという視点をもっている。例えばリルケの詩では、花が咲いて枯れる過程が生と死の連続として描かれている。これは、日常の中にある変化や移ろい、そして死もすべて自然の一部であると考える俳句の精神に通じている。

詩篇I(薔薇)
(第1連)
おまえの爽やかさがこんなにも私たちを驚かせることがあるのは
幸福な薔薇よ、
おまえ自身の内で、内部で、
花びらを花びらに重ねて、おまえが休んでいるから(柴田依子訳)

(Les Roses)
Si ta fraicheur parfois nous etonne tant.
heureuse rose,
c'est qu'en toi-meme, en dedans,
petale contre petale,tu te reposes.

この詩でわかりにくいのは、
「おまえ自身の内で、内部で、(toi-meme, en dedans,)」だが、これは、「薔薇自身のそのものの本質的な姿」、薔薇自身の内面の美しさをいうのであろう。そう考えるとこの詩は、「薔薇の花よ、おまえの爽やかさに、ときにそんなにも驚くのは、花びらを花びらに重ねて安らう薔薇自身のそのものの姿からなのだ。」と解釈できるのではないだろうか。「薔薇そのものの姿」「その存在の形象(姿)」の表現に「おまえ自身の内で、内部で、(toi-meme, en dedans,)」はいかにも私には難しい。第2連に繋がってわかるのだが、薔薇はリルケ自身の内面であり、内部とはリルケ自身の内部ととれるリルケ的表現なのだろう。「爽やかさ」は雰囲気ではなく、「具体的に」薔薇の花びらの重なりを詠むに至っている。「休んでいる」には薔薇の存在感と幸福感を表すのにふさわしく、詩人の感受性の深さが知れる言葉であろう。

これは私の思うところだが、俳句ならば、第1連をもって詠み終わり、第2連は詠まない。第1連でリルケの言う未完のままで終わり、第2連の内容を読み手に要求する。読み手の理解と把握によって俳句は完成するものだと考えている。ここで、俳句の詠み手は、読む者に第2連の内容が導きだせるよう、言葉を用意しておかなければいけない。

(第2連)
すっかり目覚めている全体、その中心は
眠っている、沈黙したその心の
数しれぬ愛のやさしさは、触れ合って
口の端まであふれている。

Ensemble tout eveille., dont le milieu
dort, pendant qu'innombrables, se touchent
les tendresses de ce coeur silencieux
qui aboutissent a l'extreme bouche.

「目覚めている全体」は「花、全体としては目覚めている」
「その中心は眠っている」は、「薔薇の中心は眠っている(ように見える)」
「数しれぬ愛のやさしさ」は「重なりあう花びらが触れ合うのが愛のやさしさ(と見る)」
「口の端まであふれている」は「薔薇の花びらが完全に開き、その美しさがあふれ、まるで口を開いているかのように咲き誇る姿の比喩。薔薇の花の広がりとその豊かさを強調している。」
(二)
また、リルケはクーシュー仏語訳の日本の俳句158句のうち36句に特に注目している。これにより、リルケの関心のありどころが分かる。
①花や月を詠んだ句。
「咲くからに見るからに花の散るからに 鬼貫」
「知る人にあはじあはじと花見かな 去来」
「中々にひとりあればぞ月を友 無村」
?死や無常をさりげなく詠んだ句。
「身にしむや亡き妻の櫛を閨に踏む 蕪村」
「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 芭蕉」
③一つの世界にある矛盾・対立。
「起きて見つ寝てみつ蚊帳の広さかな 伝千代女」
          (※伝千代女は加賀千代女とは別人江戸中期の俳人)
④ウィットのある句。
「手をついて歌申しあぐる蛙かな 宗鑑」
「追剥を弟子に剃りけり秋の旅 蕪村」
(三)
日本語では、主語が省かれている文は自然であり、また、俳句は主語の「私」は省かれている。英語、ドイツ語、フランス語では普通主語は省かれないが、リルケの詩篇XIV「薔薇(Le Roses)」はほかの詩篇と違って、主語にあたる「私」(je)が省略されている(「リルケの俳句世界」)。これについての柴田氏の言葉を要約すれば、「私」を消し去り、花や月を「友」とする俳人の境地や言語表現に通じているということだ。リルケはフランス語では省略しない主語の「私」を省略し、つまり消し去り、俳人の境地や俳句表現に習ったということだ。そして、またこの詩篇XIVは蕪村の「散りてのち面影に立つぼたんかな」と似通った世界を詠んでいるという。蕪村の句にインスピレーションを得て詩が成ったのだ。
鬼貫の「咲くからに見るからに花の散るからに」には、「甘美で無限の広がり」を感じ取っている。この句の仏訳を通して事物が「眼に見えるもの」から、「眼に見えぬもの」へ変容しているとも言う。これを私は「目の前の具体的な物が、俳句に詠むことによって、精神世界のことになる」と解釈する。
クーシューの仏語訳句や注釈から多くを吸収したが、それに加えリルケ独自の芸術観をもったと言われる。三つが主なものとされる。
①「短い驚き」と呼ばれるが、それにもかかわらずそれに出会う者を長くひきとどめずみはおかない芸術。
?一篇の詩には、言葉や詩節の間のすべてに、現実的な空間が入っている。
③丸薬を作り出す術のように、ばらばらの要素が、出来事が起こす感動によって結びつけられる。(正子注:丸められる。)その感動はすっかり単純なイメージになる必要があるが、眼で見えるものは確かな手でつかまれ、熟した果実のように摘みとられる。しかし、それは少しの重みもなく、手の中におかれるやいなやそれは眼に見えないものを意味せざるを得ない。
③はわれわれが俳句を詠むときのこと、またできた俳句のことを思って見るとよいだろう。いろんなことから感動があり、単純なイメージが浮かび、俳句を作るが、できた俳句は、目の前の物ではなく、物の重みを失くして、精神世界の俳句となっている。
また、リルケは俳句のなかに、西洋の詩には存在しない彼が希求してきた新しい詩芸術の実現を見出していると言われる。リルケは俳句に出会う半年ほど前「言葉の格だけからなっている言語」を求めていたことやクーシューの書を介しての俳句体験が彼の最高傑作と言われる『ドゥイノの悲歌』完成へのインパクトを与えた可能性があると、H・マイヤーが論文で指摘しているということだ。リルケの俳句体験は、リルケが詩人としての使命を果たすのに影響を与え、また、晩年の詩境解明の鍵となるのではないかと、柴田氏は述べている。
このように見て来ると、リルケにとっての俳句は、もともと彼が希求していたことや、彼の世界観に合致したのではないかと思える。そうでないと、これほど深く詩作に吸収できたとは思えないからである。
次は俳句体験をしたリルケが最終的に到達した詩境『ドゥイノの哀歌』を読んでみたいと思っている。今第十哀歌まであるこの詩の第一哀歌を読んだところである。幸い信之先生の遺した本にリルケ作品集の原詩があるので翻訳に頼りながらも、共鳴するところがあれば幸いであろうと、読めることを楽しみにしている。