曇りのち晴れ
七草の早や暮れいたり道に出で 正子
切り花の水仙どれも花ひらく 正子
七草となりて硯をよく洗う 正子
●『リルケ詩集』(富士川英郎訳/新潮社S38.R4 69刷)を読む。「新詩集」が一番読みやすいと思った。1907年~1908年作。1907年はリルケはパリで開催のセザンヌの回顧展を見て、感銘を受け、すぐ妻にその感想を送った年である。
「時祷集」はわかりにくいので、原詩にあたってみた。「僧院生活の巻」の冒頭の訳、「いま時間が身を傾けて」とある。「身を傾けて」の訳はわかりにくい。「身」が要るのかと思う。私などは、この「身」に意味を読んでしまう。なければ読まないが。Da neigt sich die Stunde und ruehrt mich an が題名で、冒頭はこの文で始まっている。再帰代名詞「sich」を訳しているのか。
●上にあげた『リルケ詩集』のネット上に読者コメントがたくさんあって50人分ぐらい読んだが、リルケとキリスト教、聖書について、「リルケはキリスト教と聖書の影響を受けている」とする大方の感想に少し誤解があるのでは思えたが、よく検討しないといけない。
曇りのち雨
読初めに野鳥図鑑の都鳥 正子
傷みたる筆を愛して書初めに 正子
仏壇の奥の窓打つ寒の雨 正子
●午後知らぬうちに雨が降り出していた。何日ぶりの雨なんだろう。
●私自身のリルケ解釈を確認するために、AIに次の質問をした。AIを全面的に信頼するには危険すぎるが、AIを一応の集合知、世の中一般の解釈の一面とみなしている。
正子:イエスに対する伝統的解釈に現代人は懐疑的と思われますが、リルケはどのようにイエスを解釈しましたか。
AI:リルケのイエス・キリストに対する解釈は、現代の懐疑的な視点とも共鳴する部分があると思います。リルケは、イエスを単なる宗教的な象徴や神格化された存在としてではなく、人間としての側面に焦点を当てました。彼の詩や書簡には、イエスの人間的な苦悩や孤独、そして自己犠牲が強調されています。
リルケにとって、イエスは人類全体のために自らを捧げた存在であり、その生涯と教えを通じて、人間の内面的な成長と救済を導く灯火とされています。彼の視点では、イエスの苦難と犠牲は、人間が自己を超越し、より高次の存在に到達するための象徴的なプロセスです。
また、リルケはイエスを仲介者としての存在と見なし、人間と神との間をつなぐ橋渡し役としました。この仲介者としてのイエスの役割は、リルケの詩において、人々が内面的な探求を通じて神との関係を深める手助けをするものとして描かれています。
このように、リルケは伝統的な教義にとらわれず、イエスの人間性や内面的な意義に焦点を当てることで、現代の懐疑的な視点に対しても共感を呼び起こす解釈を提示していると言えるでしょう。
正子:現代人はイエスの行動に懐疑的ですか、それともキリスト教の伝統的解釈に懐疑的なのですか。現代人はなにを恃もうとしているのですか。
AI:現代人が懐疑的になる対象は、多くの場合キリスト教の伝統的解釈であると言えるでしょう。イエス・キリストの行動自体が問題視されることは少ないですが、その行動や教えが長い歴史を経てどのように解釈され、教義として固定化されたかについては疑問を持つ人が増えています。
この懐疑の背景には、現代社会の多様性や科学の発展、情報の普及が挙げられます。これにより、人々は自分自身で考え、納得できる答えを探すようになりました。宗教的な教えに疑問を持つこと自体は、人間の成長や内面的な探求に繋がるものでもあります。
また、現代人が何を拠り所にするかは非常に多様です。ある人は科学や合理的な思考を重視し、他の人は哲学や芸術、そして個人の経験に基づく内面的な探求を重要視します。リルケのような文学者や哲学者の作品は、そのような個人的な探求を深めるための道標となることが多いです。
正子:キリスト教は仏教とちがい道徳的と思えますが、この点はどうですか。
AI:キリスト教と仏教は、どちらも道徳や倫理に関する教えを持っていますが、そのアプローチや強調点が異なります。
キリスト教は、神の意志に従うことや、イエス・キリストの教えに基づく行動を重視します。十戒や「隣人を愛する」という教えなど、具体的な道徳的指針が多く含まれています。これにより、信者は神の意志に従うことで道徳的な生活を送ることが求められます。
一方、仏教は、個人の内面的な成長や悟りを重視します。仏教の教えは、八正道や四諦など、苦しみから解放されるための具体的な実践方法を提供します。これにより、信者は自己の内面を見つめ、心の平安を追求することで道徳的な生活を送ることが求められます。
どちらの宗教も、道徳や倫理に関する教えを持っていますが、そのアプローチや強調点が異なるため、異なる視点から道徳を捉えることができます。
正子:リルケとニーチェの「神は死んだ」は結びついていますか。
AI:ライナー・マリア・リルケとフリードリヒ・ニーチェは、同じ時代のドイツ語圏の思想家であり、リルケはニーチェの影響を受けたと言われています。ニーチェの「神は死んだ」という思想が、リルケの詩や散文に間接的に影響を与えた可能性があります。
リルケの作品には、しばしば伝統的な宗教や神の概念に対する疑念や葛藤が見られます。彼の詩において、神の不在や新たな意味の探求がテーマとして扱われることがあります。これは、ニーチェの「神は死んだ」という概念と共鳴する部分があります。
ただし、リルケはニーチェとは異なる方法でこのテーマに取り組んでいます。リルケは、芸術や詩を通じて新たな意味や価値を見出そうとしました。彼は、自己の内面や人間の存在の深みに目を向け、神の不在を超えて新たな精神的な視点を探求しました。
このように、リルケとニーチェの思想には共通点もありますが、それぞれが独自の視点とアプローチを持っています。リルケがニーチェの影響を受けつつも、独自の詩的な表現を通じて新たな価値観を模索したことがわかります。
AI:人間が「何かを恃む」というのは非常に自然なことであり、多くの場合、生活や心の安定に重要な役割を果たします。これは、単なる物理的な依存に留まらず、心理的な支えや精神的な安心感を含んでいます。例えば:
家族や友人:人は孤独を感じないように、支えとなる人間関係を大切にします。
信仰や哲学:人生の意味や価値観を見つけるために、宗教や哲学に拠り所を求める人もいます。
趣味や興味:ストレスを軽減し、楽しさを提供する活動も重要な「恃む」要素です
こうした「恃む」ことは、困難な時期を乗り越える力を与えてくれたり、日常生活において精神的なバランスを保つ助けとなります。
AI:人間が何かを恃むのは、私たちの進化と社会的なつながりに深く根ざした自然な行動です。以下はいくつかの理由です:
進化的観点:私たちの祖先は、生存のために他者と協力し合う必要がありました。共同体での協力は、食糧の確保や捕食者からの防御に重要でした。これにより、他者に依存し、支え合うことが進化的に有利となりました。
社会的つながり:人間は社会的な生物であり、他者とのつながりを通じて心理的な安定感や幸福感を得ます。友人や家族、コミュニティとの関係が、精神的な支えとなり、生きる力を与えてくれます。
心理的ニーズ:マズローの欲求階層説によれば、人は生理的欲求や安全の欲求を満たした後、愛と所属の欲求を追求します。この段階で他者との関係が重要となり、自己実現の一部となります。
安心感と安定感:人生の不確実性や困難に対処するために、人は何かに依存することで安心感を得ようとします。信仰や哲学、趣味などが、この役割を果たします。
このように、人間が何かを恃むことは、生物学的、社会的、心理的な理由から自然なことです。
晴れ
朝曇りのちに晴れたる寒の入 正子
●夕方句美子の家へ。焼き魚の注文を受けているので、近所の店に行くが、焼き魚にできるものがない。七草まで漁には出ないという。せっかくの注文なので、電車に乗って都筑阪急まで出かけた。夕ご飯のおかずに釣りに出かけるようなもの。阪急にも魚の種類も数も少なかったが、鰺にした。鰺の塩焼きに合わせて、年末届いた大根と鶏ももの煮物。春菊としめじのポン酢和えなども持って行く。これは評判がいい。大根と鶏ももの照り煮風の煮物はご飯が進む味になった。
●句美子が誕生日祝いに『パット見わけ 観察を楽しむ 野鳥図鑑』(ナツメ社2022年5刷)をプレゼントしてくれた。今まで買ったものより、数段詳しいが、煩雑な感じではなくよくわかる。
「ユリカモメ」と「ミヤコドリ」の項目を見る。この二つは同じ鳥だと思っていたが、別の鳥だった。実は、別の鳥でもあるし、同じ鳥でもあるのだ。伊勢物語に出て来る都鳥は、ユリカモメを指すとのこと。ここから、ユリカモメは都鳥のこととなる。文学上でないミヤコドリとユリカモメは別の鳥。ミヤコドリは黒い羽の部分があって、嘴も脚もあかい。その姿は、「都鳥」の名からして、黒の束帯姿を彷彿させる。
曇りのち晴れ
玄関に来るたび水仙よく匂い 正子
咲く花を日ごとに増やし和水仙 正子
すっぱりと大根半分に切られ 正子
●1月月例ネット句会の案内を「月例ネット句会」と「自由な投句箱」に貼り付ける。今月は第2日曜日が12日になる。
●午前は「モーツァルトのピアノソナタ全集」をクラウディオ・アラウで聞いた。1973年から1987年録音のもののようだ。冬の日にモーツァルトをピアノソロで聞くのは、特別にいいと思えた。ソロだからいい。夜は、アラウで、「ヴァルトシュタイン」を聞いた。そのあとモーツァルトのピアノコンチェルト20番をゼールキンのピアノとセルの指揮で聞いた。とにかくよかった。
●午後、元が年始に来て、お参り。4日にもなると、正月の料理は数の子と田作りと黒豆が残っている程度。好物の数の子と田作りに箸をつけていた。子供の時から好物は変わっていない。きのう作ったプリンを出すと、当たり前のように食べていた。
そのあと、本の整理をしてくれる。パソコンの本はほとんど処分。地図と辞書も同じようなものを処分。広辞苑、英和、和英、独和、和独、古語辞典、漢和辞典、国語辞典など。「いる?いらない?」と急かすが、捨てる判断がなかなかできない。
瀬戸内レモンのハニーシロップを持ち帰らせる。元希にはリンド―ルのチョコと岩塩のポテトチップスが土産。犬のアルルは自分の足を噛む癖があって、ゴムの靴下をはかせているが、化膿して病院に連れて行ったとか。元が帰ったあと気づいたのだが、アルルは足がかゆいので噛んでいるのではないかと思う。それともなんらかのストレスか。
くもり
水仙の匂えば踏み入りがたき庭 正子
水仙の香を吸いこむことが息 正子
活けられて匂い鋭き水仙花 正子
●誕生日。『わが祝いのために』「ベートーベンのスプリング・ソナタ」と「モーツァルトピアノソナタ全集」(ピアノ:クララ・ヴュルツ)を聞いた。今朝届いた年賀状の一枚に文学的な香りのするものがあった。これをもって今日の「わが祝い」としようと思った。
『わが祝いのために』はリルケが24歳の時の第6詩集で、「最初の、真摯な、厳粛な詩集」とゲオルゲに手紙に述べて知られるリルケの詩集。
●元が明日来る予定を今日の午後に変え、また明日の午後に来るように変えたので、用意していた料理などをこれも「わが祝いのために」変更して夕飯を済ませた。「わが祝いのために」はリルケの詩集の名前であるが、今日は私の誕生日であるので余所行きの名前を借りた。
●頂いた年賀状を仏前に供えた。夫が自分の死後、誰が妻に気を付けてくれているかよくわかるように。
晴れ
●朝、「自由な投句箱」を開こうとすると開けない。ネットの接続を調べたり、パソコンを再起動したりしたが、問題はない。gooブログと、gooメールがDDos攻撃に遭っていることが共同通信の記事で知った。このことを騒ぐと犯人は喜ぶだろうから、静かにすべきだろうが、原因は公開すべきと思う。自由な投句箱の利用者にはgooブログが開かないことを電話で連絡。夜中近くになって使えるようになった。
●本を読むには落ち着かない。去年の手紙の整理。大切な手紙を入れるケースを買った方がよさそうだ。あすダイソーで探そう。
●子どもたちには大事な時なので、それぞれの家で正月を静かに過ごすように言っているので、誰も来ない。年賀状も今日は配達がないので、静かなものだ。一日音楽を聞きながら、編み物をした。クッカーで餡を炊いておいた。1日には句美子の家へはお節を持って行って会っている。元は土曜日に覗くと電話してきた。
あけまして おめでとうございます。
ご愛読ありがとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
2025年 元旦
髙橋正子
晴れ
元日の車窓に大きく日差うけ 正子
かろやかに風に乗りたる子等の凧 正子
鉄橋を渡るぞ凧がひらひらと 正子
●お節は昨日ほとんど作ったので、今朝は海老の酒塩焼きだけ作った。今年はお節を簡略にした。昼前お節をもって句美子の家を訪ねる。何が一番おいしいかと聞くと、海老だという。その次に田作り、椎茸の煮たの。行きの電車は目不動に初詣に行くらしい人たちや、これから旅行に出かける旅行姿の人たちがいた。乗客が少ないので、車窓から、明るくのどかな日差しがたっぷり注ぎ、日の暖かさ体にが伝わる。句美子のところには小一時間ほどいて帰った。帰りに多摩川を渡るとき、凧揚げの子どもたちが大勢いた。鳥ような凧もいて、ひらひら飛んでいるが、あるところから高くは上がらない。
●帰るとポストに年賀状が20枚ほどあった。ラインのスタンプの年賀状ももらっている。年賀状は出したい人だけに出すので、こちらからも少々差し出した。
●夕方から眠くて仕方がない。はっと今日はウィーンフィルのニューイヤーコンサートの中継があるのを思い出した。眠いと言っているどころではない。午後7時15分から中継。今回はイタリア人のムーティの指揮。彼は歌うような指揮をするのだとか。飾られた花々がすばらしい。ウィーンの花屋だけでは足りないだろうと思える。バラとラナンキュラスがメインに見える。聴衆のなかに日本人らしい人を見つけたり、音楽以外にも魅力がある。二曲目のウィーンの燕を歌った曲と、「入江のワルツ」がいい感じだった。終わりの「美しき青きドナウ」は耳を澄まさなければ聞き取れないほど静寂の内に始まった。
●新しく年が始まるのに、普通の日と変わらずに終わった。昨日近所の奥さんが切ってくれた水仙がますますよく匂っている。
晴れ
剪りくれし水仙の白にまじりなし 正子
水仙のしずけき奥に年移る 正子
水仙の二花の白さに年あらた 正子
●月例ネット句会の賞品が届いたと連絡がある。電話、メール、発行所ブログのコメント欄への書き込みなどがあって、ほぼ全員に届いていると思われる。
●お節を作る。八つ頭を剥いて手頸までかゆくなって慌てた。里芋でかぶれるのだから、八つ頭でもかぶれるのは当然なのだが、すっかり油断していた。この八つ頭は22日の寿餅会のときに境内の野菜の即売会で買ったのを保存していた。すこし色が変わったところもあったが、そこを大きく切り取れば大丈夫で、ホクホクに煮えた。おいしい。
●スーパーから帰る途中、近所の奥さんが庭で鋏を使っているところに出会った。今日は暖かいので、「剪定ですか」と聞くと、「お花が高いから水仙を切って活けようと思って」と言って、切りかけの水仙に少し足して一握りにしてくれた。ようやく花が咲きかけたところで、花は二つ咲いている。花がみずみずしい。帰って仏前に供え、残りは玄関に活けた。ようやく咲きかけた大晦日の水仙は貴重な花。何のお礼をしようかと思っている。
今年がいよいよ終わる日に水仙をもらったのが、最高にうれしかった。まさか、それほど親しく思ってもらっているとは、想像もしなかったから。これらの二重の意味でうれしかった。俳句葉書とコーヒーを喜んでくれる人が、例えば20人のうちにひとりいたとしたら、それは送ったことに意義がある。みんなに意義があることは、ほとんでない。意義は一人にとって、意義であれば、それでいい。
晴れのち曇り
●一年の感謝を込めて、月例ネット句会の賞品を送っていたが、皆さんの手元に届いた連絡が入る。郵便事情で、遠いところも近いところも今日届くようになっている。
●正月のお供のお菓子、何がいいのだろう。今日街に行くと源吉兆に年賀のお菓子を売っていた。2種類詰め合わせて絵馬が蓋になっている。おめでたい感じなのでそれを買った。仏具をきれいにして、葉牡丹、菊とカーネーションなどを立てて、お餅、お菓子と果物を供えた。仏壇は正月を迎える準備ができた。買って来た花に松が入っていたので、この松は玄関の花にする。明日薔薇を買ってきて松と合わせて活ける。
●昨日から炊いていた丹波の黒豆が柔らかく煮えた。明日、お節を作る。あかぎれが少し治ったので楽になった。11月に帰省した時に持ち帰った残り毛糸で、普段使いの自分のマフラーを編んでいる。中細毛糸なのでなかなか編み進まないが、厚さとしてはちょうどいい。年末は頭を空にしたい。