■1月月例ネット句会清記■
2025年1月12日
39句(13名)
01.安らかな冬の朝日を浴びにける
02.大利根の夕日ゆかしき冬の径
03.豊かなる利根の流れや山は雪
04.お降の止みて路面の光りけり
05.からからと枯葉まろびぬ風の道
06.宝恵籠のなだれ込み居り大丸へ
07.配達夫来て去りしずか雪の軒
08.山眠る湖底のウグイもこんこんと
09.初日さし湖の昏さを破りけり
10.初雪に遊ぶ童はシャツ一枚
11.雪だるま会話始まる母と子に
12.雪だるま万歳のまま夜を迎え
13.鐘響き葉間にきらめく冬の空
14.覗き見てみなが捉えし雪富士不意に
15.風波に対流潜める冬渡良瀬
16.日が昇る初雪の山の後ろより
17.日脚伸ぶ入日は稜線登り初め
18.北風に響くや子らの遊ぶ声
19.自信作一つも無しに初句会
20.双六や京は遠しと思う旅
21.初鏡パリの土産の紅をさす
22.寒晴に円すばらしき観覧車
23.裸木のあびる光は空のもの
24.花苗は生きいき寒の明るさに
25.石鎚晴れ田のひろびろと凧揚げる
26.さくら色の冬帽贈らる誕生日
27.小雪舞うリハビリ始め息合わす
28.杵つきが懐かし硬き雑煮餅
29.初漁の海豊漁の夕焼けに
30.バラ寿司の甘き酢の香に松が過ぎ
31.買初めは白青ピンクのシャツ三枚
32.学友と芯から和む正月鍋
33.月氷るバス待つ椅子もきんきんと
34.白菜に刃が入る音のさっぱりと
35.水仙の香の傍らにシーツ干す
36.裸木となり存分にひかり浴ぶ
37.元日の晴れ渡る朝今始まり
38.晴れの日に初富士眩しくレストラン
39.青々と七草粥に塩の香り
40.ネクタイの結び目作る成人式
41.新年や子らが集まり靴溢れ
42.盛りだくさん母のお節に舌鼓
※互選をはじめてください。5句選をし、その中の一句にコメントをお書きください。
晴れ
寒晴に動き大きく観覧車 正子
花苗の生きいき寒のあかるさに 正子
裸木の全身光を浴びて立つ 正子
●センター北に行った。JAには、生きのいい明るい花苗が売られていた。欲しい花ばかりだが、植える場所がないので見るだけ。ダイソーと、ユザワヤと阪急を色々見て帰った。
●年末に送った「花冠」1月号・372号のお礼の絵葉書をいただいた。昨日のことなのだが、その画は清水の舞台を下から眺めあげて、雪がしんしんと降っている。私の好きな福田平八郎の画風と似ている画だ。その静けさと色合いが送ってくださった人の印象にそのままだったので、ドキッとするぐらい驚いた。そんなことだから、夜ひとりで音楽と聞いていると、遠くにいるのにその人に昼間会ったかしら、というような錯覚がしたのだ。多分自分がいいと思う、自分の好きな画を私のために心をこめて選んで送ってくれたのだろう。感謝のほかない。
●リルケの「新詩集」より「橄欖園」(富士川英郎訳/新潮社)を読む。リルケの詩を読むための「Rilke Note for reading Rilke」を作った。リルケを読むために注釈を読まなければ解釈できない自分だけれど、それだけでなく、このような本が欲しいので、紙にパンチで穴を開けて自分で作ったのだ。結構かわいいのができた。「橄欖園」を読むのに、B5の用紙にメモが12枚必要だった。そのうちメモが少なくても読めるようになることを願っている。例えば「夜」「天使」「祈り」「盲目」「夢」などはいろいろな場合の象徴となっている。これらのいろいろな場合をまとめて知っておきたいのだ。ただ、「内省的で深い」の説明ばかりでは、さっぱり解釈できないので、弱っている。自分で自分用に作るしかない。
晴れ
●今年初めてのネット短信No.434を出す。俳壇2月号に掲載された弓削和人さんの新作6句を紹介。ところが、1月ネット句会の案内を載せるのを忘れた。
●ニトリで仏壇を置くデスクを注文。部屋の模様替えをするため。
●リルケを読んでいると、「詩人」や「詩人の姿」がどいうものを指すのか分かるような気がする。
●リルケを読みながら、リリー・クラウスで「モーツァルトのピアノソナタ」を聞いたが、音が力強い。1から17番まで。なぜか18番がなかった。先日はクラウディオ・アラウで聞いた。
快晴
晴れやかに一木を染め寒入日 正子
寒晴の空の青さを珠といい 正子
ひとりには白菜多すぎざくと切り 正子
●今日はとくによく晴れて、「寒中の快晴の空」となった。寒波が来て、西の広島の奥地も雪だという。炬燵に熱を入れ『リルケ』(星野慎一・小磯仁共著)を読んだ。今日で5,6回は読んだろう。ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」を聞きながら読んだ。「オンブラ・マイ・フ」は何度も繰り返し流れていたが、音楽に助けられた格好で、ようやく『リルケ』が本当に読めた。私は、リルケをはじめは「俳句に関係するものだけ」読もうとしたが、次第にリルケに魅了された。彼の魂がいいと思えた。純粋で崇高な精神が読み取れる。
●『ドゥイノの悲歌』(手塚富雄訳/岩波文庫)の第一悲歌だけをひっくり返しながら、数度読んでいて、「なーんだ、そういうことか」と気づいた。第一悲歌はリルケがこれから詩に歌おうとしていることを書き連ねている。そうなれば、実によくわかる。第一悲歌だけは、信之先生の『リルケ作品集』の原詩で曲がりなりにも読んだ。そんなに気構えることではないのだろう。この解釈は違っているか?
●リルケは結婚し、一人娘が生まれた後、「ヴォルヴスヴェーデの画家」「ロダン論」を書くことになった。都会のパリに放り出された「孤独と不安」が、『マルテ・ラウルリッツ・ブリッゲの手記』を書かせたが、この状態が、人間存在の本質をリルケに問わせたのは自然なことであろう。だが、ここまで身をそぎ落とさなければ本質が見えないという
なら、それを何人ができると言うのか。
●リルケやゲーテがつぎつぎ恋愛をするわけ。
AI:ゲーテとリルケの両者にとって、多くの恋愛経験は彼らの探求に深く関わっています。彼らの恋愛経験は、単なる個人的な出来事にとどまらず、彼らの文学的・哲学的な探求と密接に結びついています。
ゲーテの場合、愛は彼の人間理解の中心にありました。彼の恋愛経験は彼の作品の多くに反映されており、人間の感情や心理を深く掘り下げる助けとなりました。『若きウェルテルの悩み』や『ファウスト』のような作品は、愛とその影響を通じて人間の存在についての洞察を提供しています。
リルケも同様に、愛の経験を通じて自己探求を深めました。彼の詩には、愛の喜びと痛みが織り交ぜられており、それが彼の哲学的な問いと絡み合っています。リルケにとって愛は、存在の意味や人間の孤独、そして超越的なものへの探求において重要なテーマでした。
つまり、彼らの恋愛経験は、彼らが本来探求する人間存在の意味や感情の複雑さを理解するための重要な要素となっていたのです。
晴れ
水仙の香が玄関に通るたび 正子
寒晴の空を区切りて屋根と屋根 正子
寒の雲ちぎれちぎれに増えにけり 正子
●気がづけば今日は息子の誕生日。
●リルケの『時祷集』の「僧院生活の巻」をきのう富士川英郎の訳で読んでわかりにくいと思い、原詩にあたった。私がわかりにくさを感じた原因をきのうの段階で述べた。今日、『リルケ』(星野慎一・小磯仁共著/清水書院)の94頁に星野の訳があった。こちらのほうが私の感覚にあう。私は時間に身体性を感じなく、むしろ宇宙的なものを感じるので、富士川訳の再帰代名詞を訳出したかのような「いま時間が身を傾けて」の訳出はわかりにくかった。今日、星野訳を読んで納得した。ほかにもある。星野訳は事物に近く直感でとらえやすい。
星野慎一訳
「時」はかたむき
そうそうと鳴りとよみて われに触れ
官能はおののきふるう われは感ず われなし能う とー
かくて 彫塑の日をつかむなり
富士川英郎訳
いま時間が身を傾けて 私にふれる
明るい 金属的な響きをたてて。
私の感覚はふるえる 私は感じる 私にはできるとー
そして造形的な日をとらえる
私なら星野訳の次の3つを採用したい。
①時(間)に身体性をもたせない。
②「感覚」より「官能」を採る
③「造形」より「彫塑」を採る。
曇りのち晴れ
七草の早や暮れいたり道に出で 正子
切り花の水仙どれも花ひらく 正子
七草となりて硯をよく洗う 正子
●『リルケ詩集』(富士川英郎訳/新潮社S38.R4 69刷)を読む。「新詩集」が一番読みやすいと思った。1907年~1908年作。1907年はリルケはパリで開催のセザンヌの回顧展を見て、感銘を受け、すぐ妻にその感想を送った年である。
「時祷集」はわかりにくいので、原詩にあたってみた。「僧院生活の巻」の冒頭の訳、「いま時間が身を傾けて」とある。「身を傾けて」の訳はわかりにくい。「身」が要るのかと思う。私などは、この「身」に意味を読んでしまう。なければ読まないが。Da neigt sich die Stunde und ruehrt mich an が題名で、冒頭はこの文で始まっている。再帰代名詞「sich」を訳しているのか。
●上にあげた『リルケ詩集』のネット上に読者コメントがたくさんあって50人分ぐらい読んだが、リルケとキリスト教、聖書について、「リルケはキリスト教と聖書の影響を受けている」とする大方の感想に少し誤解があるのでは思えたが、よく検討しないといけない。
曇りのち雨
読初めに野鳥図鑑の都鳥 正子
傷みたる筆を愛して書初めに 正子
仏壇の奥の窓打つ寒の雨 正子
●午後知らぬうちに雨が降り出していた。何日ぶりの雨なんだろう。
●私自身のリルケ解釈を確認するために、AIに次の質問をした。AIを全面的に信頼するには危険すぎるが、AIを一応の集合知、世の中一般の解釈の一面とみなしている。
正子:イエスに対する伝統的解釈に現代人は懐疑的と思われますが、リルケはどのようにイエスを解釈しましたか。
AI:リルケのイエス・キリストに対する解釈は、現代の懐疑的な視点とも共鳴する部分があると思います。リルケは、イエスを単なる宗教的な象徴や神格化された存在としてではなく、人間としての側面に焦点を当てました。彼の詩や書簡には、イエスの人間的な苦悩や孤独、そして自己犠牲が強調されています。
リルケにとって、イエスは人類全体のために自らを捧げた存在であり、その生涯と教えを通じて、人間の内面的な成長と救済を導く灯火とされています。彼の視点では、イエスの苦難と犠牲は、人間が自己を超越し、より高次の存在に到達するための象徴的なプロセスです。
また、リルケはイエスを仲介者としての存在と見なし、人間と神との間をつなぐ橋渡し役としました。この仲介者としてのイエスの役割は、リルケの詩において、人々が内面的な探求を通じて神との関係を深める手助けをするものとして描かれています。
このように、リルケは伝統的な教義にとらわれず、イエスの人間性や内面的な意義に焦点を当てることで、現代の懐疑的な視点に対しても共感を呼び起こす解釈を提示していると言えるでしょう。
正子:現代人はイエスの行動に懐疑的ですか、それともキリスト教の伝統的解釈に懐疑的なのですか。現代人はなにを恃もうとしているのですか。
AI:現代人が懐疑的になる対象は、多くの場合キリスト教の伝統的解釈であると言えるでしょう。イエス・キリストの行動自体が問題視されることは少ないですが、その行動や教えが長い歴史を経てどのように解釈され、教義として固定化されたかについては疑問を持つ人が増えています。
この懐疑の背景には、現代社会の多様性や科学の発展、情報の普及が挙げられます。これにより、人々は自分自身で考え、納得できる答えを探すようになりました。宗教的な教えに疑問を持つこと自体は、人間の成長や内面的な探求に繋がるものでもあります。
また、現代人が何を拠り所にするかは非常に多様です。ある人は科学や合理的な思考を重視し、他の人は哲学や芸術、そして個人の経験に基づく内面的な探求を重要視します。リルケのような文学者や哲学者の作品は、そのような個人的な探求を深めるための道標となることが多いです。
正子:キリスト教は仏教とちがい道徳的と思えますが、この点はどうですか。
AI:キリスト教と仏教は、どちらも道徳や倫理に関する教えを持っていますが、そのアプローチや強調点が異なります。
キリスト教は、神の意志に従うことや、イエス・キリストの教えに基づく行動を重視します。十戒や「隣人を愛する」という教えなど、具体的な道徳的指針が多く含まれています。これにより、信者は神の意志に従うことで道徳的な生活を送ることが求められます。
一方、仏教は、個人の内面的な成長や悟りを重視します。仏教の教えは、八正道や四諦など、苦しみから解放されるための具体的な実践方法を提供します。これにより、信者は自己の内面を見つめ、心の平安を追求することで道徳的な生活を送ることが求められます。
どちらの宗教も、道徳や倫理に関する教えを持っていますが、そのアプローチや強調点が異なるため、異なる視点から道徳を捉えることができます。
正子:リルケとニーチェの「神は死んだ」は結びついていますか。
AI:ライナー・マリア・リルケとフリードリヒ・ニーチェは、同じ時代のドイツ語圏の思想家であり、リルケはニーチェの影響を受けたと言われています。ニーチェの「神は死んだ」という思想が、リルケの詩や散文に間接的に影響を与えた可能性があります。
リルケの作品には、しばしば伝統的な宗教や神の概念に対する疑念や葛藤が見られます。彼の詩において、神の不在や新たな意味の探求がテーマとして扱われることがあります。これは、ニーチェの「神は死んだ」という概念と共鳴する部分があります。
ただし、リルケはニーチェとは異なる方法でこのテーマに取り組んでいます。リルケは、芸術や詩を通じて新たな意味や価値を見出そうとしました。彼は、自己の内面や人間の存在の深みに目を向け、神の不在を超えて新たな精神的な視点を探求しました。
このように、リルケとニーチェの思想には共通点もありますが、それぞれが独自の視点とアプローチを持っています。リルケがニーチェの影響を受けつつも、独自の詩的な表現を通じて新たな価値観を模索したことがわかります。
AI:人間が「何かを恃む」というのは非常に自然なことであり、多くの場合、生活や心の安定に重要な役割を果たします。これは、単なる物理的な依存に留まらず、心理的な支えや精神的な安心感を含んでいます。例えば:
家族や友人:人は孤独を感じないように、支えとなる人間関係を大切にします。
信仰や哲学:人生の意味や価値観を見つけるために、宗教や哲学に拠り所を求める人もいます。
趣味や興味:ストレスを軽減し、楽しさを提供する活動も重要な「恃む」要素です
こうした「恃む」ことは、困難な時期を乗り越える力を与えてくれたり、日常生活において精神的なバランスを保つ助けとなります。
AI:人間が何かを恃むのは、私たちの進化と社会的なつながりに深く根ざした自然な行動です。以下はいくつかの理由です:
進化的観点:私たちの祖先は、生存のために他者と協力し合う必要がありました。共同体での協力は、食糧の確保や捕食者からの防御に重要でした。これにより、他者に依存し、支え合うことが進化的に有利となりました。
社会的つながり:人間は社会的な生物であり、他者とのつながりを通じて心理的な安定感や幸福感を得ます。友人や家族、コミュニティとの関係が、精神的な支えとなり、生きる力を与えてくれます。
心理的ニーズ:マズローの欲求階層説によれば、人は生理的欲求や安全の欲求を満たした後、愛と所属の欲求を追求します。この段階で他者との関係が重要となり、自己実現の一部となります。
安心感と安定感:人生の不確実性や困難に対処するために、人は何かに依存することで安心感を得ようとします。信仰や哲学、趣味などが、この役割を果たします。
このように、人間が何かを恃むことは、生物学的、社会的、心理的な理由から自然なことです。
晴れ
朝曇りのちに晴れたる寒の入 正子
●夕方句美子の家へ。焼き魚の注文を受けているので、近所の店に行くが、焼き魚にできるものがない。七草まで漁には出ないという。せっかくの注文なので、電車に乗って都筑阪急まで出かけた。夕ご飯のおかずに釣りに出かけるようなもの。阪急にも魚の種類も数も少なかったが、鰺にした。鰺の塩焼きに合わせて、年末届いた大根と鶏ももの煮物。春菊としめじのポン酢和えなども持って行く。これは評判がいい。大根と鶏ももの照り煮風の煮物はご飯が進む味になった。
●句美子が誕生日祝いに『パット見わけ 観察を楽しむ 野鳥図鑑』(ナツメ社2022年5刷)をプレゼントしてくれた。今まで買ったものより、数段詳しいが、煩雑な感じではなくよくわかる。
「ユリカモメ」と「ミヤコドリ」の項目を見る。この二つは同じ鳥だと思っていたが、別の鳥だった。実は、別の鳥でもあるし、同じ鳥でもあるのだ。伊勢物語に出て来る都鳥は、ユリカモメを指すとのこと。ここから、ユリカモメは都鳥のこととなる。文学上でないミヤコドリとユリカモメは別の鳥。ミヤコドリは黒い羽の部分があって、嘴も脚もあかい。その姿は、「都鳥」の名からして、黒の束帯姿を彷彿させる。
曇りのち晴れ
玄関に来るたび水仙よく匂い 正子
咲く花を日ごとに増やし和水仙 正子
すっぱりと大根半分に切られ 正子
●1月月例ネット句会の案内を「月例ネット句会」と「自由な投句箱」に貼り付ける。今月は第2日曜日が12日になる。
●午前は「モーツァルトのピアノソナタ全集」をクラウディオ・アラウで聞いた。1973年から1987年録音のもののようだ。冬の日にモーツァルトをピアノソロで聞くのは、特別にいいと思えた。ソロだからいい。夜は、アラウで、「ヴァルトシュタイン」を聞いた。そのあとモーツァルトのピアノコンチェルト20番をゼールキンのピアノとセルの指揮で聞いた。とにかくよかった。
●午後、元が年始に来て、お参り。4日にもなると、正月の料理は数の子と田作りと黒豆が残っている程度。好物の数の子と田作りに箸をつけていた。子供の時から好物は変わっていない。きのう作ったプリンを出すと、当たり前のように食べていた。
そのあと、本の整理をしてくれる。パソコンの本はほとんど処分。地図と辞書も同じようなものを処分。広辞苑、英和、和英、独和、和独、古語辞典、漢和辞典、国語辞典など。「いる?いらない?」と急かすが、捨てる判断がなかなかできない。
瀬戸内レモンのハニーシロップを持ち帰らせる。元希にはリンド―ルのチョコと岩塩のポテトチップスが土産。犬のアルルは自分の足を噛む癖があって、ゴムの靴下をはかせているが、化膿して病院に連れて行ったとか。元が帰ったあと気づいたのだが、アルルは足がかゆいので噛んでいるのではないかと思う。それともなんらかのストレスか。