曇り
●昨日、今日、曇りがち。今日は肌寒いくらいだ。
●有花さんに電子書籍の句集を勧める。そのことで電話で話す。早速500句ぐらいメールでおくってくる。
●百日草が毎日毎日よく咲く。ジニアではなく、百日草を植えたのは正解。夏は花が持たないので、仏様用に植えたのが、涼しくなってからよく咲くようになって、て、切ったところから枝分かれしてまた花が咲くのをくりかえしている。昔の百日草とイメージが違って、かわいらしい印象になっている。オレンジ系の色も、ピンク系の色も数種ある。
●昨日夕方から、トートバッグを作っている。簡単なものだが、製図に従って作ると、思ったより、いいものが出来そうなのだ。今日は、表側ができた。あとは内袋をつければ、出来上がり。
●女性の総理大臣が今日誕生。男性より、話すことに熱量がある。政治家は政治家であるが。
晴れのち曇り
栗の毬朝日に向けてはじけたり 正子
駅頭にサックス鳴るや秋の暮 正子
看板を銀杏に立てて大学祭 正子
●4時半起床。東の空に月と星がくっきりしている。真上の星もよく見る。もっと星が見えるところへ、と思いURの団地へ行くが、わが家のあたりの方がよく見えた。街灯の灯りが無ければ、もっときれいなはず。少しURの団地を歩いて、引き返し、わが家の前を通り、5丁目の丘へ。
今日は四十雀がよく鳴いている。オナガと鵯、百舌鳥がいた。思い出したのだが、「鳥目」というのある。いまはこんな病気の人はいないが、ビタミンAの不足でなる病気だ。子どものころは、この病気にならないよう、注意された。夜盲症というものが。鳥は夜見えないから、夜見えない人を鳥目と言ったのだ。そのことを思い出せば、暗いうちは鳥が鳴かないくらいわかるはずなのに、すっかり忘れていた。鳥は明るくなりはじめたら,すぐに鳴く。
晴れ
秋蝶の晴れし空より吾にくる 正子
秋晴れに玄関洗う水たっぷり 正子
ひと枝の金木犀を仏前に 正子
(蝶や金木犀が、単なる季語や風物ではなく、記憶や感情の深層から摘出された象徴として機能しているように思います。)
●久しぶりの洗濯日和。シーツやカバーなど大物の選択。あさってから天気がくずれそうなので、多分寒くなるかもしれないので、掃除を念入りに。ひとりなので、自分が汚さなければそれほど汚れない。汚れないようにするには。手を抜くことを考える。
●『詩を読む人のために』(三好達治)
蒲原有明の象徴詩について、
象徴詩のいわゆる「象徴」が、単なる比喩以上の広く深い「把握」とその鋭い「摘出」とを意味していることは、以上の諸例(「智恵の相者は我を見て」「霊の日の蝕」「茉莉花」)からも、いくらかの諒解されたことと思います。(p.52)
小雨、時々曇り
●『詩を読む人のために』(三好達治著/岩波文庫)
本棚から、『源氏物語』とついでに、この本を取り出した。詩をどのように読めばいいのかを、話している人は結構いる。詩を読む基本というものがあるのだろうが、それはあるようでない、のではと思う。結局、一篇一篇の詩を、著名な詩人がどのように鑑賞しているかを逐一知り、その読み方を、一篇一篇知っていくしかない、と思える。
「千曲川旅情の歌」は単純に読めばよい。明治38年に上田敏の『海潮音』が発表され、翌年の明治39年に薄田泣菫の『白羊宮』の「ああ大和にあらましかば」は、ずいぶん解釈が難しくなっている。フランスの象徴主義の影響があるというのだ。ちょうど、このころリルケが活躍している。リルケは藤村の時代の人である。藤村や泣菫に深く関わろうとは思わないが、リルケは、共鳴するところがある。これは日本の詩とリルケの間で、何が違うかということである。
日本の俳人が小説を書いた例はあるが、成功していないようだ。その理由は、風景描写は良いが、思想、哲学がないということらしい。したがって、俳人の課題は、思想や哲学をどのように俳句に盛り込むことになるだろう。そのまま入れたのでは、詩のある俳句にはならない。
小雨、のち曇り
花びらのあからむ山茶花はや咲きぬ 正子
椎の実を拾う雨の上がる朝 正子
●小雨のなか、5丁目の丘へ散歩に行く。熟れかかった、まだ青いような柿の木に、オナガが数羽。何を食べているのだろう。「小鳥来る」の季語があるが、それを実感する。四十雀の声が聞かれなくなった。鵯の声が一番よく聞こえる。椎の実を拾った。雨に濡れていたせいか、皮がすぐむける。藪のなかに山茶花が咲いていた。
●一日散文を書く。400字づめ、66枚になったが、70枚はほしいところ。
晴れ
川原の芙蓉の紅を遠目にて 正子
秋潮の川遡る音しずか 正子
雀らの泡立ち草を宿としぬ 正子
●10月月例ネット句会
https://suien.ne.jp/getsureikukai
句会の作業をしていると睡魔が襲う。少し仮眠。夢に晃さんと信之先生と、だれかがいた。温泉のようでもあるし、木々に覆われていた。だれかが笹団子を出してくれた。すると、テンツク、テンツク。祭りばやしが聞こえ、子供御輿が通る声。それに目を覚ました。ちょうど、窓の外を子供御輿が通り過ぎるところだった。今日は駒林神社の祭らしい。先週、暮れた山から太鼓の音が聞こえていたが、こちらは大人が練習していたのかもしれない。喉が変。
ここに夫がでてきたのも、不思議。いま、散文を執筆中。人のことを大事に思うような文なので、夫が「自分のことを忘れるな」とでも言ったような感じだったが、それは、夫だけではなく、正子が自分のことを忘れるな、ということでもあるらしい。夢のお告げというもののようだ。
●リルケ理解のために何をするか、課題をAIにあげてもらった。
①リルケの手紙を読む。
②『マルテの手記』を読む。(すでに読了)
③リルケの詩を訳す。(意訳でもよい)これは、実践を始めている。
これまで自己流で進めて来たことが、AIの方向とマッチしている。大筋間違っていないようだ。
雨
●執筆中の原稿、ひととおり推敲できた。字数を数えなければいけない。まだ、段落、一行空け、句読点の位置を考えなくてはいけない。
●モリスの柳の枝柄でブックカバーを縫う。布だけ見るより、仕立てたほうがよく見れる。ミシンの上糸が突然、切れる。原因に気づくまで、1時間かかる。簡単なことだった。上糸の糸巻に切り込みに糸がひっかって、切れていた。ボビンに下糸を巻いた時、糸巻を反対にセットしたため。
快晴のち曇り
早生林檎赤味ほのかにいきいきと 正子
青蜜柑少し色づき吾そばに 正子
●午前中は、快晴。台風22号の影響で、夕方から曇る。
●一日書く。椅子に座って居眠りしがち。知らないうちに眠っている。それもわずかの時間。
曇り
杉木立つくつくほうしの声ひびき 正子
葛の蔓地にのび今宵の月を待つ 正子
冷えびえと風よく吹いて無月なり 正子
●曇り空で名月は見られなかった。ちょうど真夜中、中天に昇った月が雲の隙間から一瞬見えた。夕方からは風がよく吹き、うすら寒さを覚える。
●日吉駅まで歩いて金蔵寺の横から山路を越えいった。左の腰が固くなって違和感があるので、歩けるか心配だったが、歩いているうちに違和感がとれた。杉の多いところでは、つくつく法師がまだ鳴いている。山がかりのところに、無患子の実生が育ち、葛が、葉のない蔓をコードのように地面に伸ばし、一番先に若い芽が出ている。初め何の蔓かと思ったら、葛で小さい花が2つついていた。
●ブックカバーを句美子の小学生のときの残り布で縫った。これで3枚縫ったことになる。今日縫ったのは、『リルケ詩集』用。『マルテの手記』には、モリスのいちご泥棒の絵柄。詩集、マルテには、水をこぼして、本の紙が伸びてうねっている。そのためにカバーを縫った。あと一枚は文庫本用フリーサイズ。
●『源氏物語』若紫を読む。物語の筋もだが、風景描写を丁寧に見る。
●『詩を読む人のために』(三好達治著/岩波文庫)「千曲川旅情の歌」についての文章で、
<要するにこの詩一篇は、通じていって、――すべての芸術がそれに向かって憧れるといわれる、「音楽の状態」に最も近いものであります。文芸作品としては、もっともそれに近いものの一つといって過言ではありますまい。>が注目できる。
これは誰の言葉かというと、19世紀イギリスの美術批評家・文芸評論家 ウォルター・ペイター(Walter Pater) によるものだ。
「すべての芸術は音楽の状態に憧れる(All art constantly aspires towards the condition of music)」は、。彼の代表的な評論集『ルネッサンス』(The Renaissance: Studies in Art and Poetry, 1873年)に登場する。
ペイターは、音楽が他の芸術よりも抽象度が高く、感情に直接訴える力を持つことから、絵画や文学などの芸術がその「状態」に憧れると述べた。つまり、芸術が言葉や形を超えて、純粋な感覚や感情の領域に達しようとする理想を「音楽の状態」として表現したのだ。
この思想は後の象徴主義や印象主義の芸術家たちにも影響を与え、音楽的な構造や感覚を他の芸術に取り入れようとする試みに繋がった。
これを、俳句に置き換えると、どんなことになるか。俳句は意味をもたなく、言葉により五七五とされに細かい音律で感情に訴える。季語は読者と作者の共通基盤として必要思う。
俳句の音律と感情
五七五という定型は、意味を運ぶ器ではなく、感情の波を整える枠。意味を削ぎ落とし、音の配置によって感情を響かせる。
曇り
どんぐりはもう拾わない木の実落つ 正子
青蜜柑暑さいまだに残りたり 正子
百日草色の変化を百日も 正子
●今朝、2時半に目覚め、ブックカバー文庫本サイズ1を枚縫う。句美子のホビーラのデージー柄の残り布なので、若い子向き。欲しい人がいるかも。それに丸いキャンディー袋も縫う。これも若い子向き。昼前、ユザワヤでモリスの端切れとファスナー、裏地を買った。アネモネとハニーサックルの柄。
●『源氏物語』の帚木巻の光源氏、頭中将、左馬頭、藤式部丞の四人の雨の夜の品定め。今読んでみれば、なかなか的を得て鋭い。
●このごろ、よく聞く。「方向性が違うので」。この言葉を使うと、議論できない。多様性が重要視されるからだろうけれど、「方向」が違うものにはさわらないし、何も言わない。こういう態度をとる人を、立派と言っている。これは困ったことではないのだろうか。