7月27日(日)

晴れ
北窓に花火あがりぬ菊・柳    正子
揚花火ひとり見ている間に終わる 正子
朝顔の青ひらひらと風を受く   正子
 
●夕べはアイスノンを枕にして寝たが、それでも暑い。夜中起き出して寝る部屋を変えた。クーラーを強くしてその隣の部屋に寝た。かなり暑さが極まっている。
 
●今朝の朝顔は、昨日と違って青い色が濃い。青い色がきれいなのを二輪摘んで、一つは仏前に、一つは食卓に挿した。直径は測ると11センチ。なるほど、10センチでもなく、12センチでもないこの大きさに嫌味がない。
 
●『マルテ・・』の第二部に入る。初めに「女と一角獣」のゴブラン織りの話がある。女性の愛の理想的純粋さを、「ぽるとがる文」尼僧やガスパラ・ガンダを例にみて、あるいは、ゴブラン織りの前に立ち止まり、そのなかの花や小動物を写し取る少女にそれをみた、女性としては読み過ごせない章である。「女と一角獣」についての予備知識がないと、なんのことだか、となる章でもある。最初読んだときそうだった。
 
この章はリルケが実際パリの中世美術を展示する「クリュニー国立中世美術館」で「女と一角獣」のゴブラン織りの展示を見てからの発想といわれている。このタペストリーはこの美術館の見どころのひとつで、15世紀末に制作された6枚の連作である。五感(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚)を象徴する場面と、「我が唯一の望み」と題された謎めいた一枚が展示されている。このタペストリーはマルテに手記に書かれているようにブウサックの城から持ち出されたものという。
「女と一角獣」は歴史的に意義がある。中世では五感が「人間性の全体性」を示す象徴として理解される傾向があり、各感覚は個別に重要視されたというよりも、「理性」と「本能」のバランスを図るための哲学的要素として使われていた可能性がある。『近代美術入門』(井奥陽子著・ちくま新書)では、ヨーロッパでは視覚と聴覚が特に重視されたとあるが、ここにもそのいきさつが垣間見れる。
 
ゴブラン織の美術的構造と寓意美術作品としてのゴブラン織は、物語性や寓意を強く持っていて、味覚・触覚・嗅覚といった「軽んじられがちな感覚」を織物という触れる芸術に組み込むことで、「見る」だけではなく「感じる」鑑賞体験を促しているのかもしれない。つまり、視覚と聴覚に対する反省的挑戦とも読める。
 
●午後古書店に注文していた『果樹園』(片山敏彦訳)が届いた。函入りだった。函には『果樹園』 リルケ詩集 片山敏彦訳 が真ん中に配置され、本体は布ではなく紙。表紙の色はおそらくもっと緑色だったと思われるが73年経った今は黄檗に近い。細い筆記体で「RMR、」と金(銀にも見える)の箔が押してあるだけ。背にリルケ詩集 果樹園 片山敏彦訳 とある。
 
あとがきに替えて「ヴァレのリルケ」を訳者の片山敏彦が書いている。『果樹園』はリルケが晩年を過ごしたスイスの「ヴァレ」で書いたのでそのころのリルケの周辺を含めて書いているが、すばらしい文章なのでこれから読むリルケの詩が一層楽しみになった。花冠7月号に載せた「白鳥」は40番として、たしかにある。50番「窓」はざっと見て見つからない。「窓」は別詩集『窓』にあるのかもしれない。『果樹園』を早く読みたくてネットから取り出したので、これは私のミスであろう。ネットはやはり注意しなくてはいけない。

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