晴れ
かわせみのチチと父呼ぶ冬の山 正子
睡蓮を沈めて青き冬の水 正子
寒中の精進れんこんよく食べて 正子
●夕方、句美子の家へ。夕方はやはり寒中のこと、冷え込んでいる。焼き魚の注文に応えて「横須賀漁港」の鰆の切り身があったので、それを買った。厚みがあって生きがいい。焼いている時から鰆の匂いがする。振り塩は帰省の土産の尾道の天日粉砕塩。塊があるので、ぱらぱらと振る。塩だけでおいしそうだ。厚みがあるのでしっかり焼いた。好みはよ香ばしくよく焼いた魚。
●今一番疑問に思っているのが、俳句や詩や散文では、「多義性、曖昧性」が評価されている。現代社会が複雑だから多義的、曖昧になるのはやむを得ないという。その複雑さを解き明かすのが詩人や文学者の務めではないかと思うのがだ、どうなんだろう。実験的な作品に挑むのはそれはそれでいいとしてもだ。読者にたいする親切心が足りない一方で、読者の解釈が大いに許される。私は、恣意的な解釈にイラっとすることもあるが、その恣意的解釈ができるのが、その作品の大きさだと言う意見もある。本当?と聞き返したくなる。ちょっと手を抜いてないですか。もっと思索を深めて核心へ迫った方がいいのではと思うときの方が多い。
「多義性、曖昧性」は自分を隠しているように思える。たいていの場合は著名であれば、その多義性の意味が増大し、無名であればその多義性は否定される現象があるのが現実であろう。文学の不公平性がジャーリズムによって拡大されいるのではないかと思う。
芸術における「多義性、曖昧性」は一筋縄ではいかない問題らしい、と言うことを洗て目て認識した。「一筋縄ではいかない」とわかれば、私としてはすっきりするわけだ。
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