10月8日(火)寒露

あかあかと照れる林檎が目を奪う  正子
燈明のほのかに灯り寒露なり   正子
朝顔の支柱ほどきて雨つづく   正子

●今日は寒露らしく、気温が朝から上がらず、20度から次第に下がっていった。雨はしっとり降り続いて、長く歩けばずぶぬれになりそうだ。用事で日吉に出たついでに丸善に寄る。『リルケ詩集』(リルケ作・富士川英郎訳/新潮文庫)を買った。『リルケ詩集』(リルケ作・高安國世訳/岩波文庫)とどちらにするか「形象集」の「秋」のところを比べ、富士川訳のほうが意味がすっと落ち込んでくるので、こちらにした。面白いことに「木の葉が落ちる(富士川)」と「木の葉が散る(高安)」、「地球(富士川)」と「土地(高安)」の違いがあった。星野訳は、古本でいつか買うことにしている。
Essay
(十三)リルケと俳句について
●立ち読みだが、「新詩集」の「老女」を読んだとき、思わずわが身を振り返った。やさしく、懐かしく、箪笥のナフタリンの匂いと共に思い出される少女時代。この心持は自分を顧みながら俳句を作るときの心境みたいだと。
リルケについて読むうちに、だんだん引きずられていくようになっている。沼にはまってはいけないのに。『ふぃれんちぇだより(フィレンチェ日記)』(リルケ著)を訳し、リルケ作品を愛読したと言われる哲学者の森有正の言葉がネット上にあった。
 「リルケの名は私の中の隠れた部分にレゾナンス(共鳴)を惹き起こし、自分が本当に望んでいるものが何であるか、また自分がどんなに遠くそれから離れているかを同時に、感得させてくれる」 この言葉はほんとうによく言い当てている。祈りにも似た言葉だ。
そして、ネットサーフィンをしていて、リルケを立ち読み中に魅かれた「新詩集」について
「リルケの<事物詩>成立ーー詩と事物のアナロジー」(小高康正著/関西大学学術リポジトリ/国立情報研究所)があったので、印刷した。「新詩集」についての論文。

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