曇り
湯島天神三句
境内の隅ずみまでも菊咲かす 正子
猿回しの子猿も晴れ着七五三 正子
七五三の着物つややか抱かれいて 正子
●ネット短信No.427を未明に出す。吉田晃さんの「俳壇」12月号、10月号の掲載句、および、12月号のブックレビューのに取り上げらえた句とコメントの紹介。
●湯島神社へお守りをいただきに朝から出かける。今日も御徒町から行った。天気予報は晴れだったが、電車の窓からはずっと曇り空しか見えなかった。いただいたのは、「学業御守」と「健康御守」と「神札」。境内に着くと菊祭りがあり、千輪仕立ての見事な菊をはじめ、菊愛好家や、商店街、企業、それに湯島の小学生、中学生、教職員の仕立てた菊が展示してあった。地域挙げて、天神様の菊祭りに参加と言う具合。境内でテンツク、テンツク、小太鼓が鳴っているので、近づくと猿回しだった。日光猿軍団から来たといって、2歳の猿が芸を披露していたので、少しだけ見た。2歳の猿は子ザルで、まだまだ耳や手が小さい。
●『篠原梵の百句』(岡田一美著/ふらんす堂2024.4)があることを知った。篠原梵が注目を浴びなくなったのは、人間探求派の座談会で、司会の山本健吉と論争して、互いが「許さぬ」ことになったことに始まると聞いている。実際、その理由だけではないが、その後、篠原梵は、人間探求派からはずされている。山本健吉の父親の石井露月と森鴎外の論争も有名で、その思想の違いが、今に至るまで、尾を引いている。梵の俳句が今なぜ評価されないという著者の問に、誰が答えることができるであろうか。露月と鴎外の考えの違いがいまも日本の思想に尾を引いていて、ときどき噴き出すのを見る。臥風先生は鴎外の考えに賛同していた。
篠原梵は旧制松高俳句会出身で、指導者は川本臥風先生なので、私の年の離れた兄弟子になる。句集『葉桜』『年々去来の花』も手元にある。人が世に出るときに、だれかがストップをかけることは、実際よくある。もっと著名になってい良いはずの人は多くいる。その発掘は難しい。梵は一度は俳壇の寵児であった。梵の俳句は新しいが、再評価されるかどうか。梵は帰省の度に臥風先生を訪ね、俳句に執心はあったが、中央公論の編集長に終わったふしもあるのではないかと言う学者もいる。
俳句でも、詩でも小説でもそれを始めたら、終生それに携わったかどうかが、重要なのではないかと思えた。
晴れ
うたた寝よりひとり目覚めて冬の昼 正子
●「俳壇」12月号が届く。今月は晃さんの未発表句「月の島」5句が載った。また、ブックレビュー「本阿弥ラライブラリー」に「俳句の杜2024」がとりあげられ、晃さんの句三句が批評に上った。それによれば、「平明な表現に実直な作者の顔が見える。」所属が「水煙」になっているので、信之先生もよろこばれているであろう。
●同じ「俳壇」12月号で、「宇宙」主宰の島村正氏が8月14日に80歳で亡くなられたことを知った。島村氏は見ず知らずの私に『現代俳句1』を贈ってくださった。そのなかに「誓子山脈の人々」があって、丁寧にに読んだ。お礼の手紙を出したら、長い手紙を頂いた。誓子門の谷野予志先生の事をご存じかと聞いたら、話したことはないと言う返事だった。無名の私になぜ著書をお送りくださったのかよくわからないけれど、ありがたく拝読した。
中学の教科書には、誓子、楸邨、鬼城、草田男、子規の俳句が載っていたのを覚えている。特に誓子の俳句にはスタイリッシュな新鮮さを感じていた。その影響か初心のころの作品は谷野予志先生が喜ぶような俳句を作っていた。
コーヒーの匙の上向きすぐ冷ゆる 正子
予志先生は、匙が「上向く」と気づく敏感さに驚いたといい、句会後に英文研究室でほめちぎったそうだ。これは若い助教授の先生からあとで聞いた。ちょっと困ったことになったのである。英詩の時間には、教師からここはどう思うかなど、特別に当てて聞かれるようになったのだ。訳も分からい人に。
島村正氏のご冥福をお祈りする。
●旅行の切符が買えたのでほっとしたが、窓側席は埋まっていた。ウィークデイでビジネスマンでいっぱいなのかもと想像した。東京から名古屋まではビジネスマンが確かに多い。
●普段は洒落気もなくフリースを着ているが、少し寒くなったので、自分で編んだ、正確には編んであげた、グレーのベストを少し前から重ねている。このベストは信之先生のお古。これを編んだのは一昨年か去年か記憶が曖昧。今年1周忌を迎えたので、亡くなったのは去年。
ベストは最初、模様編みにしていたが、ダサいので解いて表編みで編みなおした。そのため、編みあがりが遅くなり、完成したのは1月半ば。それから2か月少し着ていて、4月になると暖かくなって着なくなり、その後すぐに亡くなった。
こう考えると、編み始めたのは一昨年の12月で、完成して着ていたのは去年の1月の半月、2月、3月。去年の今ごろは生きていたと思ったが、もう亡くなっていた。一昨年の今ごろは生きていた。2023年、令和5年5月に亡くなったということ。