NPO法人水煙ネット


■高橋正子の書評/俳書を読む■

▼俳書
種田山頭火第六句集『孤寒』ほるぷ出版中村草田男著『俳句と人生』みすず書房松本尚志著『子規の俳句・虚子の俳句』花神社小室善弘著『俳人たちの近代 昭和俳句史論考』本阿弥書店藤田真一著『蕪村』岩波新書●小野圭一朗著『句碑を訪ねて歩くおくのほそ道』朝日文庫●

▼句集T
坪内稔典句集芸林書房2003年10月刊朝吹英和句集『青きサーベル』ふらんす堂2003年4月刊秋尾敏句集『私の行方』沖積舎2000年6月刊

▼句集U
岡本のりを句集『やさしき狼』近代文芸社2000年6月刊野田ゆたか句集『行く春』2003年8月刊碇 英一句集「冬満月」藤田洋子102句集霧野萬地郎句集「サファリ」北村ゆうじ句集「初商い」相原弘子句集「気流」

▼句集V
西垣 脩著『西垣 脩句集』角川書店昭和54年6月刊篠崎圭介句集『花』糸瓜社2004年3月刊




■種田山頭火第六句集『孤寒』■
(ほるぷ出版、昭和58年)

 『孤寒』は、一九三二(昭和七)年から一九四〇(昭和十五)年までに刊行された経本
仕立ての七冊の小句集の第六句集で、山頭火五十七歳の昭和十四年一月の出版である
。「銃後」二十五句、「草庵消息」五十六句、「旅心」三十六句の三部からなり、昭
和十二年春から昭和十三年夏までの句が収められている。この時期は昭和十二年七月
に、蘆溝橋事件があり、日中戦争へ進んで行く暗い時であった。山頭火にあっては、
昭和十三年三月六日、母の四十七回忌を済ませ、長く、六年間ばかりを住んだ「其中
庵」が崩れて庵住に堪えなくなったため、十一月には山口市湯田前町徳重氏所有の四
畳一間の家を借り、転住し、「風来居」と称して住む時期であった。中原中也系の詩
人和田健等とも親交をもった。
 三部作のはじめ「銃後」の冒頭に、「天われを殺さずして/詩を作らしむ/われ生き
て/詩を作らむ/われみづからの/まことなる詩を」が置かれていて、「まこと」の俳句
を作ることを自分の生自体とする。銃後の街頭の所見や、戦死者、戦傷者たちを迎え
た街の景色を、せつなさを殺して、暖かく具に見て、自身の生の意味をここに深く認
識したと言える。戦争の句のみを取り出し「銃後」として纏めた意味は、それだけに
重いのである。

 ふたたびは踏むまい土を踏みしめて征く
 しぐれつつしづかに六百五十柱
 凩の日の丸二つ二人も出してゐる
   戦傷兵士
 足は手は支那にのこしてふたたび日本に

 戦傷兵士の句は、悲壮感の漂うすざましい句である。
 第二部「草庵消息」の第一句、

 だまつてあそぶ鳥の一羽が花のなか

は、「銃後」の句と打って変わって、山頭火にあっては稀で、明るく、うららかな心境で
ある。それに続く第四句から第六句、

 もらうてもどるあたたかな水のこぼるるを
 とんからとんから何織るうららか
 ひなたはたのしく啼く鳥も蹄かぬ鳥も

も特にそうであって、この心境の在り方が、句集『孤寒』を大きく特徴づけていると言え
るだろう。昭和十三年十一月、「風来居」に移るまでは、「其中庵」に住み、近在を行乞
しながら、全国から俳友の來庵もあって、俳句三昧であったと言える。鍋、桶、御飯のよ
うに生活を強く打ち出した句を作っている。この時期は山頭火にとって、ささやかながら
安住できた日々ではなかったか。

 しぐるるやあるだけの御飯よう炊けた

 あるだけの米で炊いたご飯が、上出来に炊きあがったのである。時雨の降る寒い日に、
あるだけの米で炊いた御飯のありがたさに、安らぎを覚える。米を使い果たした憂いはな
い。今ある喜びを今ある様に享受する姿勢である。「よう炊けた」の口語は、自身にとっ
てねぎらいの、優しい言語である。

 藪から鍋へ筍いつぽん

 藪から掘り上げたいっぽんの筍を、鍋にどぶんと入れて茹でるのであるが、季節に巡り
合わせていただける要るだけのいっぽんを、ささやかな喜びのいっぽんを、無骨に男手が
茹でるのである。[nabe](鍋)[yabu](藪)の[b]音の太く沈んだ音と、「いっぽん」という
平仮名が丁寧に書き表す音とイメージを十分に感じとれば、山頭火の心境と生活の要諦が
はっきりしてくる。「いっぽん」は、食べるために必要な無駄を許さぬすっきりとした「
いっぽん」で、この辺りにも、山頭火の几帳面さが伺える。「いっぽん」をいただくこと
の貴重さを禅僧として身につけていたとも言えるだろう。それ故のぎりぎりに詰められた
十五字音と言える。山頭火は、最晩年の日記(昭和十五年八月一八日)に 生活の要諦は
――私に関する限りでは――左三項である。
 節度を失はないこと
 借金をしないこと
 過去に執着しないことーー当来に期待しないこと
と書いている。これらが実際に守られることは少なかったにしろ、本来の願うところであ
る。作品には、その本来が現れているといってよい。山頭火の放蕩な境涯が目立つことに
隠れて、彼の几帳面さ、清潔さ、美しさを述べるものは少ないが、彼が六年ばかり住んだ
「其中庵」は、いつもきちんと片付けられ、野の花が活けてあったという。やはり、「ホ
イトウ」と呼ばれても、大種田に生まれた自尊心があり、俳句において、ぎりぎりの自分
との対峙を余儀なくされたのであろう。「まことの詩を」に繋がるのである。
 しかし、こうした安住のなかでも母への追慕の思いは決して消えることはなかった。一
代句集としてまとめられた『草木塔』も母に捧げられている。

  母の四十七回忌
 うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする

 死後四十七年経っても、母をありありと思い描く。十歳の少年に母の死は用意もなく唐
突であった。突然に断ち切られた母との間を埋め合わせるものは、生涯なかったようだ。
種田家の破産や弟の自殺など、ますます、不幸が重なったが、逆に言えば、母への追慕が
彼を生かしたといってもよいだろう。母に供える温かいうどんの一杯に、精一杯の供養の
心が見える。
 「草庵消息」には、死線四句の掲載がある。山頭火にとって、死は生と裏表であった。
行乞行脚の生涯において、常に死を意識下に、あるいは意識上に置いたことは事実である
。自殺未遂もあった。だが、本気で死を迎える時期が来たことを悟ったのはこの時期であ
る。第六句集『孤寒』を一月に出版後、その三月、山陽、近畿、東海、伊那、木曾へ東上
の旅に発ち、五月、帰庵。九月末、湯田を引き払い広島へ行くが、広島では、大山澄太に
死期の近づいたことを伝え、伊予の国で死にたいと伝えている。終焉の場所を「一草庵」
に結んで、翌昭和十五年十月十一日暁、死を迎えた。この経緯から「死線四句」の最後の
一句は特に、山頭火の至ったもっとも澄んだ名月明鏡のような心境と見てよいだろう。
 
 そこに月を死のまへにおく

 月を前に、山頭火の魂は月となったのである。
 第三部「旅心」に収められた句には、北九州への旅が含まれている。山頭火の旅の心は
、この時期、飄々として風まかせの意味合いが特に強い。

 秋風、行きたい方へ行けるところまで

 秋風が吹けば、行きたい方角へ行きたいところまで、吹かれて行くのである。春風が吹
けばそのうららかさに、

 どこでも死ねるからだで春風

の句が生まれるのである。夏ならば、風が止むとき

 このみちをたどるほかない草のふかくも

と、「このみち」に俳句のみちを暗示して、草ふかいみちを辿るのである。もはや引き返
すことはしない。
 以上見てきたように、『孤寒』には、初期の句集の代表句に比べると、句の形やリズム
に、緊張感は欠けるものの、「まこと」の詩を作ろうとする意志をもって、心境において
、ささやかながらも、うららかに、澄明になり、飄々として孤独を甘受し、むしろ悦ぶま
でに至っていると言えるのである。それは、『孤寒』の跋文にいう「私の業だな(#傍点
文字)は寂しい自覚である。私はその業を甘受してゐる。むしろその業を悦楽してゐる。
」と書くことの証左と言えるのではないだろうか。

[参考文献]
@近代文学館編『種田山頭火句集』復刻版第六巻『孤寒』ほるぷ出版、昭和58年
A大山澄汰編『定本種田山頭火句集』弥生書房、昭和46年
B大橋毅著『種田山頭火』新読書社、一九九七年

(至文堂「国文学解釈と鑑賞」2004年10月号
p152に掲載される。)                


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